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zoom RSS 観音寺騒動と足利義輝殺害事件

<<   作成日時 : 2006/02/22 00:17   >>

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 永禄四年(一五六一)六角氏は河内守護畠山高政とともに三好包囲網を築き、翌五年(一五六二)三月五日畠山氏は三好長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎(左京大夫義賢)・義治(四郎義弼)・高定(次郎高盛)を大将として京都に出勢した(『厳助往年記』永禄五年三月六日条)。こうして一時、三好氏を窮地に追い込んでいる。
 しかし永禄六年(一五六三)六角氏では、義治(当時は右衛門尉義弼)が重臣後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺したことで、承禎・義治父子と六角近臣団が対立するという観音寺城騒動(後藤騒動)が起きた。六角氏が伊庭氏の乱を契機に守護代を廃止してから、守護代クラスの豪族級家臣に代わって、後藤氏ら新興勢力が六角氏の奉行人・使者として急成長した。その中でも、後藤氏は進藤氏とともに六角氏の両牙と称された。義治はその人望に危機感をもち、後藤父子を謀殺したと考えられる。六角氏の弱体化は決定的になった。
 さらに永禄七年(一五六四)七月四日三好長慶が没した。すると、その重臣松永久秀が暴走した。六角氏が内紛で身動きのとれない間隙を突いて、翌八年(一五六五)五月三日将軍足利義輝とその母慶寿院(元関白近衛尚通の娘)を、将軍邸に襲撃して弑逆したのである。

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