観音寺騒動と足利義輝殺害事件

 永禄四年(一五六一)六角氏は河内守護畠山高政とともに三好包囲網を築き、翌五年(一五六二)三月五日畠山氏は三好長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎(左京大夫義賢)・義治(四郎義弼)・高定(次郎高盛)を大将として京都に出勢した(『厳助往年記』永禄五年三月六日条)。こうして一時、三好氏を窮地に追い込んでいる。
 しかし永禄六年(一五六三)六角氏では、義治(当時は右衛門尉義弼)が重臣後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺したことで、承禎・義治父子と六角近臣団が対立するという観音寺城騒動(後藤騒動)が起きた。六角氏が伊庭氏の乱を契機に守護代を廃止してから、守護代クラスの豪族級家臣に代わって、後藤氏ら新興勢力が六角氏の奉行人・使者として急成長した。その中でも、後藤氏は進藤氏とともに六角氏の両牙と称された。義治はその人望に危機感をもち、後藤父子を謀殺したと考えられる。六角氏の弱体化は決定的になった。
 さらに永禄七年(一五六四)七月四日三好長慶が没した。すると、その重臣松永久秀が暴走した。六角氏が内紛で身動きのとれない間隙を突いて、翌八年(一五六五)五月三日将軍足利義輝とその母慶寿院(元関白近衛尚通の娘)を、将軍邸に襲撃して弑逆したのである。

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この記事へのコメント

山本
2017年11月04日 08:54
大石内蔵助を輩出した大石家は、田中政三の「近江源氏」によると、六角氏重臣の進藤氏の配下にあったとされています。大石家の系図には、進藤筑後守長定室、進藤吉大夫妻の記載があり、この進藤家は近衛家諸大夫を務めていますが、六角氏の重臣である進藤氏と同族と考えて良いですか?
山本
2018年03月18日 09:52
浅野内匠頭の正室瑤泉院の母は近江源氏山崎氏の出である。京都山科の瑞光院は、1613年鳥取県の若桜 初代藩主山崎家盛が父・祖父の菩提を弔うために、開創され、1657年赤穂藩主浅野家の祈願所となった。また、大石内蔵助の妻りくは、佐々成正の子孫である。
山本
2018年12月08日 09:18
【大石内蔵助良雄と進藤氏】忠臣蔵の季節である。忠臣蔵といえば、普段、涙を見せたことのない厳格な祖父が毎年必ず、浅野内匠頭刃傷のシーンを見て涙する事を、家族が面白がって話していたのを思い出す。ところで、「江赤見聞記」によれば、大石内蔵助は、赤穂を引き払った後、一族で、赤穂藩の物頭(400石)であった進藤源四郎の縁を頼って京都の山科に居を定めたという。源四郎の母は大石良勝(内蔵助良雄の曽祖父)の娘で、妻は大石良欽(内蔵助良雄の祖父)の娘、更に内蔵助良雄の娘を養女にしている。源四郎の親族に、近衛家諸大夫(青侍)であった進藤長之がいる。長之の祖父である長定の妻が大石良信の娘、長定の姉は大石良勝(良信の子で前述)に嫁いだ。このように、大石氏と進藤氏は重縁を結んでいた。また、時代をさかのぼって、戦国時代に、大石氏は、近江国栗田郡大石之荘を領し、六角氏の重臣進藤氏の配下にあった。進藤氏は後藤氏とともに六角氏の両牙と称されたほどの重臣である。(続く)
山本
2018年12月08日 09:20
(続き)大石氏と血縁にあった近衛家諸大夫の進藤氏は、下記の3つの理由から、六角氏重臣の進藤氏と同族と考えられる。六角氏重臣の進藤氏について①山城国山科辺の上層百姓・地侍であった。(「戦国大名佐々木六角氏の基礎研究」村井祐樹)近衛家諸大夫の進藤氏も山城国山科と地縁があった。②系譜が長久(木浜城を築城)・貞治・賢盛と続く。長久の「長」は、近衛家諸大夫である進藤氏の通字でもある。③六角義秀の命を受け、近衛植家の猶子である、覚慶(足利義昭)を矢嶋御所に匿って守護した。(「近江源氏1巻」田中政三)進藤氏は、この時、近衛氏とのつながりがあった可能性がある。なお、赤穂浪士に討たれた吉良上野介の正室富子の生母は近衛家諸大夫の斎藤家の出身で、当時の斎藤家当主は進藤家からの養子だった。そのため、この事件での内蔵助良雄の立場は微妙なものだったと考えられる。内蔵助良雄の考えは、「吉良に厳しい処分をしてくれと嘆願するわけでない。ただ、吉良が出勤することがないようになり、大学様も赦免されれば、人前がなってほかの方々と交際することもでき、面目が立つのである。」というものだった。
山本
2019年06月02日 09:46
忠臣蔵の義士、堀部安兵衛は旧姓が中山であり、父弥次右衛門は新発田藩士であった。中山家は、佐々木盛綱流加治助季の子孫が中山の地を領して、地名によって中山を名乗るようになったという。堀部(馬淵)氏も、佐々木氏一族である。泉岳寺の墓前の家紋は、持ち合い四ツ目結と丸に繫ぎ四ツ目結であるが、後者は旧姓中山家の家紋であると言われる。なお、義父である堀部弥兵衛と娘婿安兵衛は、双方がよく気心も体形も似ていたと言い伝えられている。(『堀内伝右衛門覚書』)