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zoom RSS 足利義昭入洛運動

<<   作成日時 : 2006/02/22 00:16   >>

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 将軍義輝の実弟・一乗院門跡覚慶は、将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良脱出に成功した。さらに将軍御供衆和田惟政(伊賀守)の案内で六角氏の保護を求めて、近江甲賀郡和田城主和田景盛(六角高頼孫)を頼った。覚慶の母方の叔父・大覚寺門跡義俊(近衛尚通の子息)も、覚慶に合流した。そして覚慶らは早速、甲賀和田城から越後上杉輝虎(のち謙信)や尾張織田信長など諸大名に連絡を取った(19)。
 覚慶らを保護した和田氏は甲賀武士であったが、また将軍御供衆(和田中務少輔)でもあった。一般に甲賀武士というと短絡的に甲賀忍者と思われがちだが、なかには和田氏のように幕府奉公衆(直臣)を勤めた者もいるという、自立した中小領主たちであった。とくに和田氏は、平安中期の前九年合戦(一〇五一−六二)で活躍した出羽守源斉頼(政頼)の子孫である名門武家で、戦国期には六角高頼の四男大蔵大輔高盛(20)の子息景盛(21)が養子入りしていた。彼が覚慶を保護したのである。和田惟政はこの甲賀和田氏の一族である。
 またこの時期、三管領のひとつ河内守護畠山政頼(御屋形様)・守護代遊佐信教(新次郎)・重臣安見宗房(美作守)らも六角氏を頼り、将軍義輝謀殺事件を諸大名に報告して協力を要請している(22)。河内畠山氏は六角氏とともに三好包囲網を築き、また越中守護を兼任していた関係から越後上杉氏とも綿密に連絡を取っていた。その結果、畠山政頼・遊佐信教・安見宗房らの書状が、上杉文書や河田文書に残された。上杉文書などで安見宗房が六角氏家臣とされるのは、彼らが六角氏に保護されていたからだろう。
 このように反三好勢力を結集した六角氏は、すぐ三好氏に対して反撃に出た。その一環として六角承禎は丹波・丹後平定に尽力し、若狭武田氏の重臣白井民部丞に対して、丹後出勢を要請している(23)。

  丹波之儀蘆田越前守・荻野悪右衛門尉以調略過半本意候、此刻
  至丹後表被差急出勢、可被及行段肝要候、丹波之儀無油断才覚
  此節候、猶狛丹後守可申候、恐々謹言、
     正月廿二日  承禎(花押)
       白井民部丞殿

  丹州御出勢之儀、以梅軒申候之処、可被相立由各馳走之験、
  尤珎重候、諸口相調候之条、早速可被及行事肝要候、猶梅軒
  可申候、恐々謹言、
     二月廿日   承禎(花押)
       白井民部丞殿

 永禄八年(一五六五)八月二日荻野悪右衛門尉(直正)が、松永長頼(久秀の弟内藤備前守・蓬雲軒宗勝)を滅ぼしたことで、丹波情勢は一変した(24)。そして承禎書状にあるように、丹波の大半を三好方から奪った。さらに丹後への出勢も進めている。このように六角氏は各地の反三好勢力を結集して、着実に勢力圏を拡大させていった。
 情勢が落ち着き始めると、覚慶は近江国平野部の野洲郡矢島御所に移った。そこで還俗して義秋と名乗るとともに、将軍の前段階である従五位下左馬頭に補任された。矢島御所は、六角氏の重臣進藤山城守(賢盛)の居城木浜城の近くである。
 義秋が、父義晴の庇護されていた六角氏の居城観音寺城には入城できなかったのは、観音寺城騒動で六角氏が二分されていたからである。進藤氏ら六角氏近臣団は義秋を庇護したが、近臣団と対立した六角義治(承禎の嫡子)は、義秋の敵人三好氏と通じた。
 永禄九年(一五六六)八月三日には矢島御所で三好方に内通する者があって、三好軍三千が近江国坂本に侵攻した(『言継卿記』永禄九年八月四日条)。このことで六角義治が三好氏と通じていることが露見した。六角義治が三好氏と通じていたことは、三好三人衆の一人三好康長(山城守入道)に年賀の御礼として太刀一腰を贈っていることでも分かる(25)。
 義秋は近江を脱出して、妹婿である若狭守護武田義統、ついで大国である越前守護朝倉義景を頼った。ただしこの義秋の北国行きは単なる逃避行ではなく、越後上杉輝虎(謙信)の出陣を促すための積極的な行動とも考えられる。

【注】
(19)(永禄八年)八月五日付上杉輝虎(謙信)宛大覚寺門跡義俊副状(『新潟県史』資料編3中世、五〇七号)、および(永禄八年)六月二十四日付河田長親・直江実綱宛安見宗房書状(河田文書。『新潟県史』資料編5中世、三七四〇号。『越佐史料』四巻五三四頁)ほか。
(20)『歴名土代』従五位下の項に「源高盛享禄二年二月二十一日」とあり、さらに天理大学所蔵『大館記』所収の『大館常興日記』天文十一年八月二十六日条に「佐々木大蔵大輔殿」とある。また同じく『大館記』所収の『御内書并私状等案』に、八月一日付佐々木大蔵大輔宛大館晴光書状案がある。
(21)『歴名土代』従五位下の項に「源景盛永禄三年八月二十九日」とある。
(22)(永禄八年)六月二十四日付河田長親・直江実綱宛安見宗房書状(『歴代古案』二巻一〇一号。『越佐史料』四巻五三四頁)、(永禄八年)八月八日付薬師寺九郎左衛門尉宛畠山政頼書状・遊佐信教書状・安見宗房書状(尊経閣文庫)ほか。
(23)『福井県史』資料編2中世、三重県白井文書四一号・四二号。
(24)『お湯殿の上の日記』永禄八年八月四日条、『多聞院日記』永禄八年八月日条、および(永禄八年)八月五日付大覚寺門跡義俊書状(『歴代古案』三巻二八号。『大日本古文書』上杉家文書五〇七号。『新潟県史』資料編3中世、七五九号。『越佐史料』四巻五四三頁)。
(25)(年未詳)正月十六日付三好山城入道宛六角義治礼状(『古今消息集』)。『近江蒲生郡志』七〇一号(二巻、七三九頁)。

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