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zoom RSS 義秀遠行

<<   作成日時 : 2006/02/22 00:14   >>

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 入洛直後に義秀は病没した。やはり義秀は傷病に苦しんでいた。滋賀県和田文書の(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状(27)によれば、信長は義秀が没したとの報に接して言語を絶するとともに、近く起こるであろう六角承禎の帰国に用心するよう浅井長政に求めた。

  義秀遠行之趣絶言語儀候、承禎帰国者近可有之条、各尤油断
  有之間敷候、武田事若州可相催之間寄特候、委細沢田兵部少
  可申述候、謹言、
     五月十一日  信長(花押)
      浅井備前守殿

 この信長書状によって、江州殿の実名が義秀であることが確認できる。また永禄十一年(一五六八)九月の信長上洛戦で承禎・義治父子が没落した後も、義秀が健在だったために近江が静謐だったことが分かる。実際に、滋賀県黒川文書所収の永禄十二年(一五六九)六月二十八日付黒川修理進宛六角氏奉行人奉書(28)が存在する。
 こののち元亀年間(一五七〇−七三年)には、信長が心配していた通り承禎・義治父子が近江に帰国し、浅井長政や朝倉義景と結んで信長に対抗したことで、近江が混乱に陥った。元亀争乱である。義秀逝去の報は、信長にとってまさに言語を絶する出来事となった。
 この信長書状は、永禄十一年(一五六八)九月の六角承禎・義治父子の近江没落から、浅井長政が朝倉義景と結んで信長を裏切る元亀元年(一五七〇)四月までの間のものと推定できる。五月十一日付であることを考えれば、永禄十二年(一五六九)に比定できよう。また、このことから永禄十一年(一五六八)に信長とともに足利義昭を奉じた江州殿が、義秀だったことが確認できる。
 この書状の使者は、六角氏の有力被官沢田兵部少輔である。『福井県史』資料編2中世では信長書状中にある使者を「津田兵部少輔」と読み、信長の被官津田元嘉のこととしているが、彼が兵部少輔と名乗ったことは管見の限り見られない。津田兵部少輔ではなく、沢田兵部少輔である。沢田兵部少輔は、鎌倉初期の佐々木定綱の次男左兵衛尉定重の子孫で、六角氏の有力被官であった。一般に偽系図作者の烙印を押されている沢田源内は、この沢田氏の子孫である。
 同文書は、使者沢田兵部少輔と姻戚関係にあった雄琴城主和田氏に伝えられた。この雄琴和田氏は、前述の甲賀和田景盛の弟和田中務丞(秀純)の子孫である。
 この和田文書には義秀書状(29)と伝わる文書もある。東京大学史料編纂所の影写本には、偽書というメモ書きがある。しかし、それは朝倉義景の署名と花押のある朝倉義景書状である。六角義秀書状の偽物ではなく、朝倉義景書状の本物であった。
 偽書と書き込んだ人物は、自らが義景を義秀と読み間違えた上で、本物の義景書状に偽書と書き込んだ。このことは、義景を義秀と読むという間違いをしただけではなく、さらに文書の真贋を義秀は実在しないという思いこみでしたことになる。紙質や文体・筆跡などで偽書と判断したのではなく、思い込みによって判断したのである。実証的研究とはいっても、このように思いこみに左右されることがよくある。義秀と読み間違えて義秀書状発見と喜んでいる方がまだ救われる。このことでも史料批判の難しさが分かる。

【注】
(27)東京大学史料編纂所影写本滋賀県和田文書。『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書一号。
(28)永禄十二年六月二十八日付黒川修理進宛武藤康明・種村賢仍連署状(黒川文書)。東京大学史料編纂所影写本滋賀県黒川文書。
(29)(元亀元年)十月十五日付和田源内左衛門尉宛朝倉義景書状。『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書二号。

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