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zoom RSS 朝倉義景と六角義景

<<   作成日時 : 2006/02/22 00:12   >>

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 越前の戦国大名朝倉義景は、六角氏綱の子息であったという異説がある。富山県立図書館所蔵『朝倉家録』所収の『朝倉家之系図』で、義景=六角氏説は異説として紹介されている(30)。六角氏側では、『江源武鑑』はまったく伝えていないものの、沙々貴神社本佐々木系図と『六角佐々木氏系図略』が、六角氏綱の次男として朝倉義景を記述している。
 これまでは、六角氏綱の没年が永正十五年(一五一八)であることから、天文二年(一五三三)誕生の義景の実父とするには年代が合わないとされてきた(31)。しかし氏綱の孫と考えれば生年の問題は解決する。しかも義景生年の前年である天文元年(一五三二)十二月に、六角氏と朝倉氏の間で密約が交わされている(32)。この密談に関する天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状には、密約の内容が記されていないものの、「末代迄」という文言から相当重要な内容だったことが分かる。そして、その翌年に義景(長夜叉丸)が誕生したことになっている。密約の内容は、やはり義景の出生に関することと考えられる。
 実際にこののち、六角氏の重臣山内・九里・河端などの名が義景の近辺に見える。天文七年(一五四八)山内丹後入道が越前から若狭に進入することが、若狭武田氏によって懸念されている(『証如上人日記』天文七年九月二十九日条)。また天文十年(一五四一)朝倉孝景・長夜叉丸(のち義景)父子の気比神宮遷宮に際しては、河端民部少輔が朝倉側の窓口として、幕府側の窓口大館晴光と対面している(33)。
 さらに前述のように、永禄十年(一五六七)の足利義昭の朝倉義景邸御成のとき、山内六郎左衛門尉・九里十郎左衛門尉が門警固役を勤めている。このとき仁木義政が、亭主朝倉義景とともに足利義昭を大門の外まで出迎えるなど、義景の後見者として振る舞い、さらに饗宴でも義昭に相伴している。御相伴衆は管領家に準ずる名誉的格式で、足利将軍の饗膳に相伴するだけではなく、幕政に参画した宿老集団であった。門役の山内・九里両氏は、この御相伴衆仁木義政に従っていたと考えられる。
 六角氏は、天文十一年(一五四二)十月に伊勢国司北畠氏を破り、仁木氏の旧領国北伊勢の朝明・員弁郡を領していた。『江源武鑑』天文十一年十月二十七日条によれば、義久の弟河端義昌が北伊勢・伊賀を領国として、伊勢義昌と名乗ったという。その伊勢の旧守護家仁木氏は馬頭・馬助を世襲官途としていたが、沙々貴神社本などの系譜伝承によれば義昌の官職は左馬頭である。しかも後述するが、元亀四年(一五七三)二月に仁木義政が近江で挙兵したときに、義景は義政を「佐左馬(佐々木左馬)」と呼んでいる(34)。やはり仁木義政と河端義昌は同一人物だろう。そうであれば、気比神宮遷宮で朝倉側の窓口となっていた河端民部少輔も、仁木義政と関係がある。 このように、義景の近辺には六角氏関係者が多くいる。義景に六角氏出身説があるのも肯首できる。
 永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されたとき、弟義昭(一乗院覚慶)は奈良を脱出して近江甲賀郡和田城に逃れたが、このとき奈良脱出を成功させたのは義景の調略である(35)。義景は、確実に近江に地盤を有している。
 義景は織田信長との抗争を開始した元亀元年(一五七〇)に、自らの花押を六角氏様に変更している。六角義秀没後に義景が六角氏様の花押を使用したことは、朝倉義景=六角氏説を考え合わせると象徴的である。義景は六角氏の後継者を自負して、六角氏様の花押に替えたと考えられる。
 同年十二月の織田信長との和議の際に発給された、元亀元年十二月十五日付山門三院執行代宛朝倉義景書状写(36)で、「遺(叡)山之儀、佐々木定頼の時の寺務等の如く」と明記されていることでも、義景が六角氏を意識していたことが分かる。
 滋賀県竹生島宝厳寺文書に花押の異なる義景書状二通が所収されている。一通は十二月十六日付竹生島大聖院宛朝倉義景書状(37)で、足利義輝から諱字を給付されて延景から義景に改名した直後の永禄年間(一五五八−七〇)のものである。もう一通は六角氏様の花押がある六月二日付竹生島大聖院宛朝倉義景書状(38)、織田信長と抗争した元亀年間のものである。元亀年間の義景書状では、去年参詣したときの祈願が成就したため太刀を贈ると記されている。元亀元年(一五七〇)志賀の陣での戦勝を祈願したのだろう。そしてそれが成就したので、太刀を贈ったのである。
 この太刀は、もともとは伊予河野氏の先祖が源頼朝より賜ったものであった。河野氏は祈願成就があったため太刀を比叡山に寄進し、さらに比叡山が義景に贈ったという。比叡山が義景に太刀を贈ったことや、義景が竹生島に参詣していることは、義景が北近江の支配者であったことを象徴していよう。また姉川の合戦以後も、浅井氏が余力をもっていたことが分かる。
 そして滋賀県内には六角義景がいたと思わせるほどに、六角氏様の花押が描かれた朝倉義景書状が多く残ることになった。和田文書採集の際に、歴史学者が義景書状を義秀書状と誤ったほどである。口頭伝承の中にも、義景の伝承を、義秀の伝承として誤り伝えたものが多くあると考えられる。

【注】
(30)白崎昭一郎『郷土史夜話えちぜんわかさ』(北陸通信社、一九七八年)ほか。
(31)水藤真『朝倉義景』(人物叢書、吉川弘文館、一九八一年)ほか。
(32)天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状(内閣文庫所蔵文書)。『福井県史』資料編2中世、東京都内閣文庫所蔵文書『古今消息案』四号。この文書が朝倉義景=六角氏説を支持する資料であると、私が注目できたのは、福井市の郷土史家白崎昭一郎氏の御指摘による。
(33)(天文十年)八月二十八日付川端民部少輔宛の大館晴光書状案。『福井県史』資料編2中世、東京都内閣文庫所蔵文書『越前へ書札案文』八五号。朝倉孝景(弾正左衛門入道)宛の大館晴光書状案(『越前へ書札案文』八一号)の文中では「川端」ではなく「河端」としている。
(34)(元亀四年)三月十八日付多胡宗右衛門尉宛朝倉義景書状(尊経閣文庫所蔵文書)。『福井県史』資料編2中世、東京都尊経閣文庫八六号。
(35)(永禄八年)八月五日付上杉輝虎(謙信)宛大覚寺門跡義俊副状(『歴代古案』三巻二八号。『大日本古文書』上杉家文書五〇七号。『新潟県史』資料編3中世、七五九号。『越佐史料』四巻五四三頁)。および同日付直江大和守宛大覚寺門跡義俊書状(『歴代古案』二巻五号。『越佐史料』四巻五四四頁)。
(36)『伏見宮御記録』利七十三所収の「元亀元年山門へ綸旨并信長状」。奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』二六五号。
(37)滋賀県竹生島文書(東京大学史料編纂所影写本)。『福井県史』資料編2中世、滋賀県竹生島文書一号。
(38)『福井県史』資料編2中世、滋賀県竹生島文書二号。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
先祖が京都琵琶湖から朝倉義景妹として早津姫の名前で朝倉道景母として永平寺町にきたと伝わっています確証はありません金左衛門より
早津姫
2016/07/31 09:36
朝倉義景の妹が京都近江から来たという言い伝えは、とても興味深い伝承です。口頭伝承のみでしょうか、それとも文字資料も残っていますか。いい情報をありがとうございます。
佐々木哲
2016/08/03 12:23

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