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zoom RSS 浅井久政・長政父子と六角氏

<<   作成日時 : 2006/02/22 00:11   >>

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 『江源武鑑』『浅井日記』では、浅井長政を六角氏の武将と伝えている。また『六角佐々木氏系図略』では、浅井久政は六角氏の庶子だったとも伝えている。もしそうであれば、六角氏と朝倉・浅井両氏は深く結び付いており、元亀争乱で浅井長政が朝倉義景に寝返ったことも理解できる。少なくとも浅井久政の名乗りは、江州宰相六角義久の諱字を給付されたものと考えられる。
 元亀争乱では、前述の和田文書所収(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状に使者として見える沢田兵部少輔をはじめ、山崎・目賀田・伊達・藤堂など六角氏の有力被官が浅井方に参加している。しかも、滋賀県福田寺文書所収の(年未詳)十二月十七日付和田惟政披露状写(39)によって、六角氏が浅井長政(備前守)と織田信長の妹の婚姻に尽力していたことが確認できる。宛先の三雲対馬守(定持)・新左衛門尉(成持)父子は甲賀を本拠とする六角氏重臣である。
 長政の父久政は親六角路線をとっていたが、長政は永禄二年(一五五九)に六角氏重臣平井定武(加賀守)の娘と離別し、さらにそれまでの実名賢政を捨てた。賢政の名乗りは六角義賢の偏諱(貴人の実名の一字)を給付されたものであった。こうして長政は自立の動きを見せた。六角氏はただちに近江北郡に兵を進めたが、翌三年(一五六〇)野良田合戦で敗れた。そこで六角氏は、義治(四郎・義弼)の正妻に美濃斎藤義龍の娘を迎えて同盟を結び(40)、同四年(一五六一)浅井長政が美濃に侵攻した隙を突いて、浅井氏の属城佐和山城を落して浅井氏を屈服させた。そして長政は、六角氏の仲介で信長の妹と再婚した。
 長政は、(年未詳)九月十五日付市橋伝左衛門尉宛書状で、織田方に寝返っていた斎藤龍興旧被官氏家卜全・安藤守就(伊賀)を通して信長(尾張守)に婚姻の実行を願い出ていることから、実際の婚儀は永禄十年(一五六七)あるいは翌十一年(一五六八)と考えられる(41)。また、このことで長政の実名が婚儀以前からの名乗りであり、信長とは関係ないことが分かる。
 このように六角・朝倉・浅井の三氏の結び付きは強い。やがて三氏は比叡山・本願寺と結んで、信長と対立する。元亀争乱である。

【注】
(39)滋賀県福田寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『東浅井郡志』四巻、福田寺文書一号。
(40)永禄三年七月二十一日付六角宿老衆宛六角承禎条書(春日倬一郎氏所蔵文書)。『岐阜県史』史料編古代・中世四、神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書。
(41)『古文書纂』。奥野高広「織田信長と浅井長政との握手」日本歴史二四八号、一六五−九頁、一九六九年。

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