佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 元亀争乱と近江修理大夫

<<   作成日時 : 2006/02/22 00:10   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 『言継卿記』元亀元年(一五七〇)四月二十九日条に、「江州へ六角出張云々、方々放火云々、北郡浅井申合、信長に別心せしむ云々」とある。当時は、浅井氏が信長に反旗を翻したのは、六角氏と示し合わせたためと考えられていたことが分かる。また(元亀元年)七月十六日付益田藤兼宛朝山日乗書状(42)に「江州北之郡浅井別心候、則ち六角殿も六千計りにて取り出でられ候」とあり、このときの六角軍の兵力が六千であったことが分かる。けっして少なくない。
 続けて『言継卿記』同年五月九日条に「巳刻織田出陣、二万計りこれ有り、江州六角入道以下出張、北郡浅井同心云々、大儀の至りに候」とあり、やはり浅井の挙兵が六角氏と申合せたものであることが確認できる。この六角・浅井連合軍に対して、信長は二万の兵で出陣した。これは信長にとって苦境の始まりであった。それは「大儀の至りに候」という言葉で分かる。
 さらに同月十二日条で「信長今日勢多の山岡城へ入れらる云々、六角入道紹貞を拘ふこれ有り云々」とあって、六角承禎が捕縛されたという伝聞の記事がある。しかし、これは虚説だった。
 実際には捕縛されたのではなく、信長方と六角方の和平交渉が始まったのである。ところが同月十九日条で「江州より日乗上人・村井民部少輔上洛云々、六角和与の事相調はず云々、仍つて今日弾正忠濃州へ下向云々」と記されているように、六角方との和平交渉は不調に終わった。六角方はあくまで強気だった。
 『言継卿記』同月二十二日条に「六角入道、同右衛門督等、一昨日歟甲賀石部城へ出でらる云々、二万計り云々」とあり、六角承禎の軍勢が二万の大軍であったことを伝えている。実働の軍事力は、信長と対等である。さらにこのとき信長は、命中しなかったものの甲賀山中で鉄砲で狙撃された。六角承禎の軍事活動はけっして抵抗程度のものではなく、本格的なものだった。二万の兵力を有していれば、承禎父子が信長からの和平交渉を断ることも理解できる。
 このような情勢の中で、義秀の縁者と考えられる近江修理大夫に宛てた織田信長書状の写しが、『士林證文』に収められている。(元亀元年)六月十九日付近江修理大夫宛織田信長書状写(43)である。

    今十八日、浅井郡へ令着陣候、貴国も早々彼表在陣尤候、
  一、当四日承禎父子、諸牢人ヲとりあつめ候而、野次(洲)郡へ
   うち出、相働候所ニ、柴田・佐久間所ニありあい候よしニ而
   馳向、得勝利候て、くひ数岐阜へ到来、不斜候事、
  一、十日所々一揆共ヲ催、貴国の居城近辺へ逆徒相働候所、
   早速跡敷、その上承禎父子いけ取ニ被致事、誠ニ是ハ江家
   の御手柄共候事、
  一、承禎父子事、宮の御聞候て、助命あり度の事、これも
   貴国ノ御心次第候、
   くはしくは織田金左衛門口上申含候、恐々謹言、
      六月十九日    信長(花押)
       近江修理大夫殿
             人々御中

 信長書状写によれば、近江修理大夫は信長と同心しており、元亀元年(一五七〇)六月四日佐久間信盛・柴田勝家が承禎・義治父子を破った。さらに十日近江修理大夫が承禎父子を捕縛した。しかし宮(天台座主覚恕法親王か)が、承禎父子の助命・釈放を嘆願したという。
 『言継卿記』六月四日条に、「江州小浜合戦午時にこれ有り云々、六角左京大夫紹貞・同右衛門督義ヽ以上、二三千人討死、敗軍云々、申刻武家へ方々より注進これ有り云々、織田弾正忠信長の内佐久間右衛門尉、柴田修理亮、江州衆進藤、永原等勝軍云々、珍重々々」と記されている。この合戦は、江州殿の重臣進藤山城守(賢盛)の居城木浜城をめぐる攻防戦と考えられる。この木浜合戦(『信長公記』では野洲川合戦)で、織田・江州連合軍が六角承禎軍を破った。『言継卿記』と近江修理大夫宛織田信長書状写の内容が一致する。ただし『言継卿記』『信長公記』に承禎父子捕縛の記事はない。『言継卿記』五月二十一日条で和平交渉を捕縛と誤り伝えていたが、今回も近江修理大夫と承禎・義治父子が接触したというものかもしれない。
 さらに信長は追而書(追伸)で、「今十八日、浅井郡へ着陣せしめ候、貴国も早々彼の表に在陣尤もに候」と述べ、近江修理大夫に浅井郡への着陣を促している。
 そして同月二十八日に姉川の合戦があった。織田方の文書を読む限りでは、姉川の合戦は織田・連合軍の大勝であった。しかし、朝倉・浅井連合軍の反撃はすぐに始まっている。織田方の資料は、割り引いて読んだ方がいいだろう。
 九月二十日には朝倉・近江高島衆・一揆衆が、織田方の属城近江宇佐山城を攻めて、織田信治・森可成らを討死させた。さらに二十一日には先鋒が逢坂山を越えて山科に進駐した。ここに、織田信長が反信長勢に包囲されて窮地に立たされた志賀の陣が始まった。
 『言継卿記』はつねに信長方の勝利と記し続けており、信長方の情報に基づいていることは明白だ。それでも『言継卿記』の記事は、六角承禎の軍事力の大きさを記している。それに対して『信長公記』は、元亀元年十月二十日条に「江南表の儀、佐々木左京大夫承禎父子、甲賀口三雲居城菩提寺城と云ふ城まで罷出でられ候へども、人数これなく候て、手合せの躰ならず候」とあるように、敵人六角承禎を過小に述べている。これでは『信長公記』をもとに歴史像を構築していては、偏った歴史像になる。姉川の合戦も、織田側が宣伝したほど重要な戦いではなかったか、あるいは織田側の資料に書かれたような織田方の大勝ではなかったと考えられる。実際に、こののち元亀年間に朝倉義景は竹生島に二度参詣し、太刀を奉納している。浅井氏が依然として北近江で勢力を維持していたことが分かる。『信長公記』から脱した歴史観が求められよう。
 六角氏の軍事力がけっして弱小ではなかったことは、『言継卿記』同年十一月二十一日条で「江州六角と織田弾正忠和睦云々、今日三雲・三上両人、起請請取りに志賀へ越す云々」とあるように、信長と六角氏の和睦が重大関心事になっていたことでも分かる。
 そして一カ月後の同年十二月十五日には、織田信長と朝倉義景の和睦も成立した。その同日付けで発給された山岡対馬守宛織田信長朱印状写(44)では、「国主還附候とも、右の領知に於ては別条あるべからず候」と述べられている。信長が山岡対馬守に新規に給付した領地について、国主が旧領主に還付したとしても、領知高については本知・新知分ともに保証するというものである。この文言を見る限り、国主江州殿はいずれかの時点で反信長方に転じていたことになる。近江修理大夫が承禎・義治父子を捕縛したと伝えられたときだろう。
 もちろん、この国主を承禎と見る考えもあろう。しかし、こののち承禎が国主として行動した形跡はない。むしろ江州殿に連なる人物が国主として行動している。翌二年(一五七一)九月信長によって焼打ちされた比叡山を、翌々三年(一五七二)佐々木氏郷(義郷)が自領蒲生郡に再興している。このことから江州殿が国主であり、しかも信長から自立した存在であったことが確認できる。

【注】
(42)『大日本古文書』益田家文書二九九号。
(43)肥前島原松平忠和蔵本『士林證文』三巻(東京大学史料編纂所謄写本)所収。奥野高広『増訂織田信長文書の研究』上巻、二三八号。
(44)奥野高広『増訂織田信長文書の研究』上巻、二六六号。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

元亀争乱と近江修理大夫 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる