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zoom RSS 比叡山再興と佐々木氏郷

<<   作成日時 : 2006/02/22 00:09   >>

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 元亀二年(一五七一)信長によって焼き打ちされた比叡山延暦寺を、佐々木氏郷(義郷)が元亀三年(一五七二)蒲生郡中荘山に再興したという伝承がある(45)。氏郷が七百石を寄進したことで、近江蒲生郡中荘山を新比叡山として延暦寺が再建された。坊舎は七十二坊を数えたという。この七百石はその土地の収穫高ではなく、年貢高である。現在の長命寺の建物はそのときの坊舎のひとつと伝えられている。氏郷が延暦寺を蒲生郡に再建していることは、彼が信長から自立した勢力であったことを示している。
 この江州殿による延暦寺再建によって、信長がまだ近江国の中心部である蒲生郡を支配できず、江州殿が独自の行動をとっていたことが分かる。しかも元亀三年(一五七二)江州殿は本願寺と結んで、反信長的態度を明らかにしている。同年のものと考えられる九月十日付の十ケ寺惣衆中宛下間正秀書状によれば、御屋形様は一向一揆を観音寺城(御城)に入城させていた(46)。また同年に六角義治も近江愛智郡鯰江城に入っており、江州殿が蒲生郡だけではなく広く近江中郡(東近江地域)に勢力を有していたことが確認できる。
 武田信玄が足利義昭の側近上野秀政(中務大輔)に宛てた書状案(47)で、信長を倒して比叡山を再興する決意を述べた。この信玄書状案が甲賀武士山中氏に伝わるのは、氏郷による比叡山再興運動に連動していたからだろう。
 この交渉と関係があると考えられる(年未詳)九月七日付興聖寺宛氏郷書状(48)が、内閣文庫所蔵『朽木家古文書』に収められている。

  就今度山之儀被仰結間、乍指出地走仕候處ニ相調、一段面目之
  至候、此度之儀者、当院与我等御同縁ニ付如此候間、更以後之
  山之引懸ニ不可成之候、為其一筆令啓候、恐々謹言、
     九月七日  氏郷(花押)
    興聖寺
      参侍者御中

 氏郷は同書状で、鎌倉期の近江守護佐々木信綱(四郎・近江守)によって創建された興聖寺に対して、我らと同縁と述べていることから、彼が佐々木信綱の直系であったことが確認できる。また同書状によって彼が比叡山と和を結んだことも分かる。
 この氏郷は、同じく『朽木家古文書』に所収されている中氏郷書状案(49)で自ら「中左氏郷」と署名し、蓮乗坊快秀書状案(50)では「中左兵衛佐殿」と呼ばれている。
 兵衛佐は殿上人の官途であり、源頼朝も帯びていた。さらに室町期では鎌倉公方足利氏や管領斯波氏の世襲官途であり、武家での格式はたいへん高かった。そのような左兵衛佐という官職を帯びる氏郷は、当然大名の格式をもつ人物である。しかも六角氏には「中」と名乗った者がいた。
 『お湯殿の上の日記』天文六年(一五三七)十二月二十一日条に「かめこまん、中御たるしん上申」とあり、六角亀寿とともに中が音物を進上している。中氏郷が、亀寿義秀の連枝であったことが確認できる。
 氏郷は「御屋形様」「殿様」ではなく「中左兵衛佐殿」と称されていることから、有力連枝・後見人という立場と考えられる。義秀が没した後の江州家の家督を預かっていた人物であろう。まもなく江州殿の家督(大本所)が登場する。

【注】
(45)『全国寺院名鑑』近畿編(一九六九年)、および村山修一『比叡山史』(東京美術、一九九四年)。
(46)滋賀県誓願寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『東浅井郡志』四巻、誓願寺文書七号。井上鋭夫『一向一揆の研究』(吉川弘文館、一九六八年)五六八−九頁。
(47)正月日付上野中務大輔宛武田信玄書状案。神宮文庫所蔵『山中文書』二九五号。
(48)『朽木家古文書』二三三号。
(49)『朽木家古文書』六二八号。
(50)『朽木家古文書』六二九号。

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