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zoom RSS 足利義昭政権と元亀争乱

<<   作成日時 : 2006/02/22 00:06   >>

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 実は元亀争乱は、朝倉義景が足利義昭の上洛命令を拒否したことで始まっている。足利義昭は単なる傀儡ではなく、畿内政権の実質的主体として将軍権力の再生を目指し、『多聞院日記』永禄十一年(一五六八)十月六日条でも「山城・摂津・河内・丹波・江州悉落居、昔モ此ノ如ク一時ニ将軍御存分ハコレ無キ事」といわれている。義昭は畿内を幕府系の諸将に配分することで彼らへの軍事動員権を確保し、奉公衆など直属軍を編成している。実際にこの直属軍によって、本圀寺を宿所としていた義昭を襲撃した三好三人衆勢を撃退した。義昭の軍事力は、畿内での通常戦闘では十分だった(56)。さらに強大な軍事力を有していた織田信長を取り込んだ。義昭は、将軍固有の権限にもとづいて、戦国大名に対する和平工作を直ちに開始しているが、将軍が畿内政権の実権を握り、強制力を備えれば、全国政権再建のための惣無事の論理に発展しうる(57)。義昭は早速、近国に対する統制強化を図り、近国の地域権力に対して入洛をもとめた。しかし朝倉義景は拒否した。これが元亀争乱の始まりである。
 義昭は朝廷に対しても強硬であった。前述のように、元亀三年朝廷が山門滅亡など戦乱を憂い静謐安穏を願って改元を希望し、信長は承服したが、義昭は承服しなかったということがあった。朝廷が進めていた改元作業を、義昭は拒否したのである。さらに義昭は、それまで天皇が任命して将軍が承認する形式だった武家伝奏を、武家政権が任命して天皇が承認する形式に変更し、将軍家に奉仕していた公卿飛鳥井雅教を武家伝奏に任命した(58)。それに対して信長は、天皇により近い人物を、武家伝奏にした。このように義昭政権は短期間に終わったものの、将軍権力の再生を目指したと評価できる。
 このように将軍権力の絶対化を目指した義昭は、自らの権限として畿内近国の諸大名に上洛命令を発し、それを拒否する者に実力で制裁を加えようとした。それに対抗した六角・朝倉・浅井陣営は、義昭の和平工作を拒絶し続けた。本願寺も義昭の動きに対して、元亀元年(一五七〇)九月門徒に蜂起命令を出した。その停止のための勅書には、本願寺は将軍・信長に敵対しているとされているが、それは決して形式的な文言ではない。顕如は、義昭が信長と一味になって本願寺と義絶したとして、加賀四郡中の将軍御料所の公用分を留め置くよう命じている(59)。このように畿内近国の諸勢力は地方分権の維持を目指し、それを否定する義昭に対抗した。同年十二月の和平は、信長が天皇を持ち出すことによってようやくと成立している。
 このような仮説にもとづいて、もう一度資料を読み直す必要がある。実証歴史学といっても、純粋に資料に書かれていることだけをもとに歴史を再構築しているわけではない。無意識のうちに自分が有している歴史像を当てはめながら資料を読んでいる。そのため客観的に資料を読んでいると思い込んでいるとき、もっとも無反省に、自分が無意識のうちに有している歴史像を当てはめて資料を読んでいる。物語論が歴史像の相対性を主張しているのは、そのことに注意を呼びかけるためだと考えれば、むしろ実証歴史学に役立つものである。従来の歴史像はややもすれば、『信長公記』『太閤記』の視点から歴史像を再構築してきた。しかし異なる視点からでなければ読めない内容が、必ず資料には含まれている。実証歴史学では必ず対立仮説が必要である。
 朝倉義景・浅井長政が義昭に対抗するために、足利将軍の猶子六角氏を奉じたことは十分に考えられる。当初信長と行動をともにしていた近江修理大夫/御屋形様が、途中で朝倉・浅井方に転じた理由はここにあろう。元亀三年(一五七二)六角氏郷(義郷)は、その前年信長によって焼き打ちされた比叡山を再興した。また朝倉義景は、近江武士多胡宗右衛門尉に対して、六角佐々木左馬頭の要害に援軍を送ることを約束をしている。今後、義昭・信長に対抗する六角・朝倉・浅井連合軍という作業仮説を立て、当時の資料を読んでいくことが求められる。
 しかし元亀三年(一五七二)に義昭と信長が対立した。このとき江州殿の後継者である六角義堯は動揺し、承禎・義治父子に相談を持ちかけた。義景が信長と対抗しつつも軍事行動が消極的だったのも、彼らがもとともと反義昭を旗印にして挙兵したからだとも考えられる。中央集権志向である義昭と信長のどちらにも味方することができなかった。そして、その揺らぎの中で、朝倉氏と浅井氏は相次いで滅亡していく。そのあいだの動向はもう一度、資料を読み直しながら再構築していく必要がある。

【注】
(56)脇田修『近世封建制成立史論』織豊政権の分析U、東京大学出版会、一九七七年。
(57)池享「大名領国制の展開と将軍・天皇」講座日本歴史4(中世2)、東京大学出版会、一九八五年。
(58)伊藤真昭「織豊期伝奏に関する一考察」史学雑誌一〇七編二号、一九九八年。
(59)『勧修寺文書』證念書状(東京大学史料編纂所影写本『勧修寺文書』七)。『大日本史料』第十編之四、元亀元年九月十二日条(八六三−四頁)。

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