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zoom RSS 甲賀武士と六角義堯

<<   作成日時 : 2006/02/15 23:25   >>

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 甲賀武士というとすぐに甲賀忍者を想像してしまうが、実は自立した中小領主による一揆(地域連合)であり、中には朝廷・公家や幕府に直仕する者もいた。この甲賀武士と六角氏の関係は深く、山中文書や黒川文書には義堯に関する文書が伝わる。その甲賀郡中惣が全国的に注目されたのは、応仁・文明の乱後に起こされた六角氏征伐のときである。
 近江守護六角高頼(行高)は応仁・文明の乱で西軍にあって反幕府的行動をとり、乱後も混乱に乗じて寺社本所領を押領し続けた。そのため九代将軍足利義尚は、高頼を討つため長享元年(一四八七)近江に出陣した。このとき高頼は美濃土岐氏や越前朝倉氏と大名一揆を結ぶとともに、幕府軍との正規軍での正面衝突を避けて、自らは近江国甲賀郡に隠れて甲賀武士団によるゲリラ戦で応戦した。
 近江甲賀郡・伊賀・伊勢・大和は比較的中小領主が自立していた地域であり、最後まで南朝勢力が抵抗活動し続けた地域でもある。応仁・文明の乱のとき、高頼は近江守護職を剥奪されて敗走したことがあったが、そのときこれらの地域を逃走している。そして将軍親征では、高頼は積極的に近江甲賀郡に逃走して一揆勢力を糾合し、ゲリラ戦で幕府正規軍に応戦した。
 このように高頼は地域一揆と結んで幕府軍と対抗したため、義尚は戦果を挙げられないまま、長享三年(一四八九)に近江鈎の陣で病没した。長享の乱である。また十代将軍足利義材(義稙)も延徳三年(一四九一)に六角氏討伐軍を起こしたが、やはり甲賀武士団によるゲリラ戦に苦戦して、誘降に応じた近江守護代山内政綱(六角政綱)をだまし討ちするにとどまった。延徳の乱である。その直後、義材は明応二年(一四九三)に細川晴元のクーデター(明応の政変)によって将軍職を剥奪され、流れ公方となった。
 この後も六角氏と甲賀武士団の結び付きは強く、承禎・義治父子も永禄十一年(一五六八)織田信長の近江侵攻で甲賀郡に逃走して、甲賀武士団(甲賀郡中惣)や伊賀武士団(伊賀惣国一揆衆)の支持を受けながら信長に激しく抵抗した。そして六角氏は甲賀郡から、甲斐武田勝頼・越後上杉謙信・伊勢北畠朝親(具親)らと連絡を取り合って、信長包囲網を築き上げた。そのため承禎・義治父子の甲賀敗走は、高頼と同様積極的な逃走と考えられる。『言継卿記』元亀元年五月二十二日条によれば、甲賀郡石部城に居た承禎・義治父子の軍事力は二万の大軍であった。信長軍と互角である。実際に信長は甲賀・伊賀鎮圧に苦労し、武田信玄と上杉謙信のどちらかの急死が無ければ信長包囲網は成功していた。

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