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zoom RSS 山中文書と六角義堯

<<   作成日時 : 2006/02/15 23:23   >>

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 元亀・天正年間に六角承禎・義治父子とは別に六角氏当主がいたことを示す六角承禎書状が、滋賀県山中文書(3)に収められている。それは、義堯書状の内容を山中大和守(俊好)に知らせた(年未詳)十月二日付六角承禎書状である(4)。

  先度被申候、池田使昨夕来候、上文候所も無之候、申談之候間、
  然處義堯之文申旨候者、夜前申来候者事、申□□能□候、何共
  難計躰之条、昨夕父子迄相談候、夜中ニ人被越候、子細事、
  一途於覚之可申候、書中ニハ難申置候、□□具不申、相申次第、
  是有間敷候、乍□其□候、申子細共候、□□□□三州表之儀
  候、可寄候、又四国衆等え者、渡海之事申遣候、三好甚五郎
  罷上など申候、二□□□□、以上申来候、猶京都相聞候、出座
  之儀者、態可申候、此砌弥郡中之儀、才覚可為肝要候得、
  猶青可申候、恐々謹言、
     十月二日   承禎(花押)
    (切封)
     山中大和守殿 承禎

 義堯は六角氏重臣池田景雄(次郎左衛門尉)を使者とし、承禎・義治父子に相談を持ちかけていた。承禎父子以外にも六角氏がいたことが確認できる。
 まず義堯の使者となった池田景雄は、京極流佐々木道誉(高氏)の庶兄定信が養子に入ったことで京極佐々木流となった甲賀武士で、戦国期にはその分流が蒲生郡浅小井城主となり、六角氏重臣のひとりとなった。六角氏式目連署人では周隣軒と池田景雄の二人が池田氏であり、永禄十一年(一五六八)九月信長の近江侵攻で承禎・義治父子が没落してからは、景雄が信長に仕えていた。景雄はのちに秀雄(伊予守)と改名し、豊臣秀吉政権下で伊予大洲城主となっている。しかしこの文書から、景雄が義堯に従っていたことが分かる。織田信長に仕えていた「江州衆」は、実は信長に直仕していたのではなく、義堯に従っていたと考えられる。義堯は当初織田陣営にいたのである。
 内容は、@夜前に義堯所を訪れた者があり、そのことについて夜中に義堯が池田氏を使者として承禎・義治父子に相談してきたというものである。次にA三河方面のこと、B三好甚五郎ら四国衆に渡海を命じたこと、C出座のことなどが記されている。
 まず@で義堯が承禎・義治父子に相談している事実から、義堯と義治が別人であることが分かる。ただし相談内容については、書中に書けないとある。A三河方面のことは、甲斐武田氏の三河への軍事行動を指していると考えられる。承禎書状の日付である十月二日に注目すれば、元亀三年(一五七二)十月三日に武田信玄が上洛軍を起こして甲斐を出発したことと関係があろう。六角氏が甲斐武田氏の動きを事前に知っていたということである。こののち武田信玄軍の本隊は遠江に進入し、また秋山信友(伯耆守)を大将とする別動隊は東美濃に進入して岩村城を攻めた。遠江に進入した武田本隊は、十月下旬から徳川方の遠江二俣城を攻めて十二月十九日に落とし、十二月二十二日には三方ケ原の戦いで徳川家康軍本隊を撃破、翌四年(一五七三)正月十一日から三河野田城を攻めて二月十日には落とした。ところが信玄は同年四月十二日に病没してしまった。これで元亀信長包囲網には大きな穴が開いてしまった。しかし六角氏は、その後も信玄の子息勝頼(四郎)と綿密に連絡を取り合いながら、六角−武田連合を軸に反信長連合を形成していく。
 さらにB義堯が三好甚五郎ら四国衆に渡海を命じていることから、義堯が三好氏と綿密に連絡を取り合っていたことも分かる。後述するが天正六年(一五七八)正月に義堯は阿波・淡路の兵を従えて堺に上陸している(談山神社文書)。阿波・淡路の兵は三好軍であろう。義堯と三好氏の関係は深い。
 もうひとつ注目できるのは、承禎が付け加えて述べている「出座の儀」は、義堯自身の挙兵だろうか。そして将軍義昭も挙兵へと動く。六角氏は義昭と手を組んだのである。
 また義堯の活動時期を考えると、『お湯殿の上の日記』天文二十一年(一五五二)十一月二十七日条に髪置の記事がある亀千代と同一人物と考えられる。髪置は二歳で行うため、亀千代の生年は天文二〇年(一五五一)である。そうであれば義堯は、元亀三年(一五七二)には二十二歳である。
 この山中文書所収の承禎書状で、承禎が六角義堯と甲賀武士との連絡役を勤めていたことが分かる。実際に承禎(義賢入道)が義堯の使者を勤めていたことが、後述する黒川文書所収の義堯書状で確認できる。当時承禎は甲賀郡石部城に籠城しており(『信長公記』)、義堯はその承禎を通して甲賀武士と連絡をとっていた。
 さらに坂内文書で、承禎は義堯のことを「大本所」と呼んでいる(5)。義堯は、承禎にとっては大本所(大本家)に当たる人物であった。それに対して義治は、父承禎を「御屋形」(6)「大御屋形」(7)と呼んでいる。承禎は義治にとって大御屋形であった。つまり義堯−承禎−義治という格づけができる。義堯は、承禎・義治にとって大本所であり、また織田方の池田景雄を使者としていた。義堯は、永禄十一年(一五六八)九月に信長とともに上洛した江州殿の後継者と考えられる。

【注】
(3)神宮文庫所蔵山中文書、および東京大学史料編纂所影写本滋賀県山中文書。
(4)『山中文書』三七四号。
(5)天正四年十二月十八日付坂内亀寿宛六角承禎書状(坂内文書)。兵庫県坂内文書(東京大学史料編纂所影写本)。『三重県』資料編近世1、一章−二三号。
(6)(永禄九年)三月二十八日付進藤山城守宛六角義治書状(蘆浦観音寺文書)。『近江蒲生郡志』六七五号(二巻、七一三−四頁)。
(7)(元亀元年)十月二十四日付長束東仏坊宛六角義治書状。『大日本史料』十編之四、元亀元年六月四日条。

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