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zoom RSS 武田勝頼と六角義堯

<<   作成日時 : 2006/02/15 23:20   >>

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 義堯は元亀三年(一五七二)甲斐武田信玄と連絡を取っていたが(山中文書)、翌四年(一五七三)に信玄が病没した。そのことで元亀の信長包囲網に大きな穴が開き、十五代将軍足利義昭は京都を追放され、越前朝倉義景と北近江浅井久政・長政父子は相次いで滅亡した。そして元号も元亀から天正に改元された。
 しかし義堯は、信玄の後継者四郎勝頼と連絡を取り合った。この交渉では承禎自らが、義堯の使者として活動している(黒川文書)。承禎は、天正二年(一五七四)武田勝頼に使者辻和泉守を派遣して交渉を進めた(黒川文書)。さらに義堯は越後上杉謙信に使者大館藤安(兵部少輔)を送り、武田勝頼と上杉謙信の同盟を作り上げた(河田文書・上杉文書)。これで武田勝頼は背後を気にすることなく、上洛軍を起こすことができるようになった。そして翌三年(一五七五)武田勝頼が長篠の戦いに至る軍事行動を起こすと、承禎は次男高盛(中務大輔)を派遣している(東京都本堂平四郎氏所蔵文書)。この武田軍の正確な情報は、義堯によって一向一揆にも知らされた。このようにして六角−武田連合を軸に天正の信長包囲網が結成されていった。

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コメント(6件)

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参考になると思いますので。
鴨川達夫先生「武田信玄と勝頼」によると信玄が信長を倒す決意をしたのは、義景宛書状によると、本願寺および義景からの要請によるとあります。また兵を動かしたのは元亀2年ではなく、3年であることを明らかにされています。
これは後世の「家忠日記増補」を鵜呑みにしたことによるとされています。
証拠として、信長信玄宛元亀3年10月書状には異常がないことを挙げられています。義景の背後に義尭がいたものと思われますが。
岩永正人
2007/10/25 22:07
コメントありがとうございます。

拙著『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』でも書きましたが、元亀3年の段階で、六角義堯と武田信玄は連絡を取り合っています。六角承禎が仲介になっており、承禎の次男中務大輔高盛が武田方に派遣されています。
佐々木哲
2007/10/26 02:00
質問が一つあるのです。貴殿の前文と後文によれば、此処で【注】の(8)〜(10)が有りませぬか?一寸怪しいと考えまする。

PS:外国人で、日本語が本当に下手ですが、済みませんと申します。
藤原晴秀
2009/02/24 00:35
拙著『系譜伝承論』の該当個所「二武田勝頼と六角義堯」は注(11)から始まり、注(8)〜(10)は前節「一六角義堯と甲賀武士」にあります。

もし、この回答が質問とかみ合っていないようでしたら、また御連絡ください。

佐々木哲
2009/02/24 00:49
お答えと有り難うございます。

このブログで唯その節「甲賀武士と六角義堯」とみたが、その中に注(8)〜(10)がありません。もしかしたらそれは、貴殿が言った「一六角義堯と甲賀武士」と同じではありませんか?

僕は最近このブログでご文章「六角義堯研究」を読んでしまいますが、ただご注釈が此処にの注(8)〜(10)を見えず。たしか出版したものだけにあれば、此処に見えていけないかも。そのなら、残念と考えまする。

なおどうも有り難う。
藤原晴秀
2009/02/25 12:08
コメントありがとうございます。

注(8)〜(10)は、拙著『系譜伝承論』(思文閣出版)の「四章六角義堯の研究」の「一節六角義堯と近江武士」のなかの「木村文書と六角義堯」にある注です。そこは、義堯の花押について写真を使用しながら論じているので、ブログでは省略されています。拙著のみでの記載になります。そのため拙著を読んでいただかなければなりません。もし不明な点がありましたら、またご質問下さい。

※会員ではなくてもコメントできるようにしましたので、そちらを使っていただいても良いですよ。
佐々木哲
2009/02/27 03:41

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