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zoom RSS 武田勝頼との同盟

<<   作成日時 : 2006/02/15 23:19   >>

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 甲賀武士の子孫に伝えられた滋賀県黒川文書(11)に、義堯書状が収められている。それは、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す、六角義堯書状である。

  狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、
  猶賢可申候、謹言、
     二月廿日   義堯(花押)
       黒川修理進殿

 義堯が黒川修理進に宛てた内容は、次のようなものである。狛修理亮まで報告した旨は確かに聞き届けた。神妙である。東北のことはこの通りであるから、忠義に励むことが肝要である。なお義賢入道(承禎)が詳しく述べるであろう。
 この書状から、@六角氏の重臣狛修理亮が義堯と甲賀武士の連絡役をしていたこと、A義堯が東国や北国と連絡を取っていたこと、さらに3.義堯が承禎(義賢)を使者としていたことが分かる。
 文中に見える狛修理亮は六角氏重臣であり、布施淡路守(公雄)とともに六角氏式目の宛所となった狛丹後守の弟である。狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった。このときも狛修理亮が承禎の使者となって黒川氏を訪問し、そこでの黒川氏の言葉を、義堯の許に行って口上した。それに答えて義堯は書状を簡潔に書き、承禎(義賢)が詳しい内容を書いた副状を添えて、狛修理亮が黒川修理進へ持参した。狛修理亮は六角氏重臣であり、六角氏の言葉を正確に伝えるだけではなく、交渉もしたと考えられる。
 ここで義堯は、承禎の行動に敬語を使わずに「なお賢申すべく候」と述べている。もし義堯が承禎の子息であれば、敬語表現で「なお賢申されべく候」と述べるだろう。このことでも義堯が承禎の上位者であることが確認できる。
 ところで黒川文書には、承禎(義賢)が使者辻和泉守を甲斐武田勝頼へ派遣したことを伝える七月十五日付承禎書状がある(12)。その承禎書状では、伊勢長島の一向一揆に対する信長進発の情報を立ち聞きするよう、黒川修理進に命令しているため、天正二年(一五七四)のものと特定できる。このことから義堯書状の文中にある「東北」のうち、東国が甲斐武田勝頼であることは確実である。甲斐武田氏との交渉が調ったことを黒川修理進に伝えた義堯書状は、天正二年(一五七四)以降のものである。では北国は誰を指しているのだろうか。
 実は、天正元年(一五七三)に京都を追われた足利義昭は上杉謙信に援助を求めており、吉川元春に宛てた(天正元年)十月十日付足利義昭御内書(13)、(天正四年)十一月十五日付真木島昭光書状(14)、(天正四年)十一月二十八日付真木島昭光書状(15)に「東北国」という文言がある。義堯が武田勝頼と上杉謙信の和約に係っていたことは、後述する上杉文書・河田文書所収の義堯書状で確認できる。黒川文書所収の義堯書状にある「東北この通り」というのは、武田氏と上杉氏の同盟が成立したことを述べていよう。

【注】
(11)滋賀県黒川文書(東京大学史料編纂所影写本)。
(12)東大史料編纂所影写本滋賀県黒川文書。『甲賀郡志』下巻、一二五〇頁。
(13)『大日本古文書』吉川家文書四八七号・足利義昭御内書。
(14)同四九四号・真木島昭光奉書。
(15)同四九六号・真木島昭光奉書。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
はじめまして。詳細な研究内容、大変勉強になります。上杉謙信というキーワードを追ってやってまいりました。今日は、謙信生誕日ですね。それでは失礼致します。http://samurai365.livedoor.biz/archives/50157905.html
武士の歴史365日
2006/02/18 12:57
コメントありがとうございます。
わたしは反信長同盟側からの視点で歴史を再構成していますので、上杉謙信・景勝や武田勝頼の研究もかかわってきます。ですから、上杉・武田研究の方から評価されるととてもうれしく思います。
佐々木哲
2006/02/18 20:50

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