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zoom RSS 織田信長包囲網の形成

<<   作成日時 : 2006/02/15 23:10   >>

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 上杉謙信が要請を受け入れたことに対する義堯の礼状が、『歴代古案』に収められている。同文書の三宝院義堯書状がそれである(26)。この義堯書状は『越佐史料』に掲載されているが、原本がないために花押を確認できない。しかし上杉謙信が援軍の要請を受けたこと対する礼状であることから、三宝院義堯ではなく六角義堯の書状と分かる。

  旧冬差越富蔵院候処、種々入魂之由、尤快然候、則至東国可
  被移 御座処、海路難合期故、御延引、非御油断通、得其意
  可申越旨被仰出候、越・甲・相三和之儀、謙信於被応 上意者、
  御入洛可為眼前候、然者、謙信以御覚悟、御当家御再興之条、
  年来被止宿意、入眼候様可被取成儀、併被対公儀御忠切不可
  過之候、馳走之段内々達 上聞候、尚河伊可申候、恐々謹言、
     五月十六日  義堯(花押)
        長殿

 内容が越後上杉・甲斐武田・相模北条の三和を講じるものであることから、天正四年(一五七六)のものと考えられる。また「旧冬富蔵院を差し越し候処、種々入魂の由に候」とあることから、天正三年(一五七五)末には上杉氏が援助要請を承諾していたことも分かる。さらに、実現しなかったものの義昭が東国に移るという案があったことも分かる。
 宛所が河田豊前守ではないのは、このときすでに彼が越中経営に専念していたためだろう。宛所となった長景連は、能登畠山氏の重臣長氏の一族である。長続連・綱連父子が織田信長に内通して、主君畠山義隆(義慶)を毒殺するという事件があったが、景連は続連・綱連父子と袂を分かって上杉謙信に頼っていたのだろう。六角氏は能登畠山氏と姻戚関係にあり、能登畠山氏旧臣である長景連に披露を依頼することは十分に考えられる。ただし宛所の長景連に脇付「進之候」がないため、前述の河田長親宛書状よりは薄礼である。上杉氏との交渉が進んできたためと考えられる。
 使者の「河伊」は、前述の河田長親の父河田元親(伊豆守)と考えられる。信長は天正六年以降佐々長穐(権左衛門尉)を通じて、越中経営に当たっていた長親に対して寝返りを奨めているが、そのとき信長が長親に提示した条件が本国近江の地の給付である(27)。これは、近江河田氏が天正年間も六角氏に仕えていたために、河田氏領が欠所扱いとなっていたからだろう。長親の父元親をはじめとする近江河田氏が、六角氏と上杉氏の連絡役になっていた。義堯は、上杉謙信に援助を要請するにあたって、六角氏旧臣河田長親や能登畠山氏旧臣長景連に謙信への披露を依頼したのである。
 上杉文書には原本の残っている義堯書状(28)もある。花押から六角義堯書状と特定できるもので、『新潟県史』資料編でも「六角義堯書状」とする。

  今度条々被加 上意之処、以朱印早速被及 御請段、 
  御感不斜候、 御本意眼前候、弥火急御入洛之儀、
  御馳走頼被 思召之由、以 御内書被仰出候、当表
  之様体、今村猪介仁申含候、期来信候、恐々謹言、
     八月五日  義堯(花押)
     不識庵
        玉床下

 義堯花押は書き止めの跳ねないものであり、天正三年四月以後のものであることが分かる。使者の今村猪介は近江国神崎郡今村を本拠とする土豪で、六角氏被官である。義堯に同行した「六角殿取次」の一人と考えられる。この書状の宛所は上杉謙信本人である。宛所に相手の家臣の名前を書いて主人に披露を請う形の付状ではなく、直接相手に宛てた直状である。このように河田長親宛書状・長景連宛書状・上杉謙信宛書状と段々と薄礼になっているのは、交渉がうまく進むにつれて上杉謙信本人に親しみを込めるようになったと考えられる。
 内容は、謙信に対して急ぎ上洛軍を起こすよう要請したものである。義堯は上杉謙信を反信長陣営に取り込み、信長包囲網をつくることに成功した。
 またこの時期のものと考えられる六角承禎書状が、『歴代古案』に収められている(29)。

  従公方様御内書、為御使大館兵部少輔被指越候、御呉服并
  御袖細御拝領候、尤御面目之至候、被応 上意御帰洛御才覚、
  偏御当家可為御再興候、様体者委藤安可在口上之条、不能詳
  候、恐惶謹言、
     十二月二日   沙弥承禎
    謹上 上杉弾正大弼入道殿

 六角承禎の書状であるため、『越佐史料』では、足利義輝暗殺事件によって弟義昭(一乗院覚慶/義秋)が奈良を逃れて近江に在国していた時期のものと判断して、永禄八年(一五六五)のものとした。しかし宛所は「上杉弾正大弼入道殿」であり、上杉謙信が出家した元亀二年(一五七一)以後のものである。義堯と上杉謙信との交渉の中で発給されたものだろう。この承禎書状では、宛所の上所に「謹上」と付けた丁重なものである。この承禎の書札礼は、上所のない義堯書状よりも厚礼であり、このことでも義堯が承禎の上位者であったことが分かる。やはり義堯が当時の六角氏当主であり、承禎・義治父子はその補佐である。

【注】
(26)『歴代古案』七巻五九号・三宝院義堯書状。『越佐史料』五巻三三二−三頁。奥野高廣『足利義昭』(人物叢書、吉川弘文館、一九六〇)二四七頁でも、三宝院義堯書状としている。
(27)(天正六年)四月末日付若林助左衛門尉宛佐々権左衛門尉長穐書状。『大日本古文書』上杉家文書六七四号。『越佐史料』五巻四六九−七〇頁。『新潟県史』資料編3中世、五七一号。
(28)『大日本古文書』上杉家文書六四九号・六角義堯書状。『新潟県史』資料編3中世、七六五号。
(29)『歴代古案』五巻四五号・六角承禎書状。『越佐史料』四巻五五一−二頁。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
 資料を元にしているので、本当に勉強になりました。
七尾城攻めの後、畠山氏の遺児を引き取った意味も分かったような気がしました。
歴史
2010/05/15 02:47
コメントありがとうございます。私の研究が資料をもとにしていると評価していただきうれしく思います。この時期の諸大名の動きは信長包囲網ですっきりと理解できることが多いですね。また能登畠山氏は近江余呉荘を領していたか関係から、六角氏との関係がとても強いです。
佐々木哲
2010/05/17 13:36
佐々木さまへ

 再び失礼します。
長景連のプロフィールを検索していたら、また
こちらに行き着きました(^^ゞ
 この前は景連氏については印象が薄かったのですが、長続連一族について知るにつれて、興味が沸いてネットで少し調べたりしていました。

最近、一般向けと思われる戦国時代雑誌の見出しで、「能登畠山氏 VS 上杉謙信」というのがあるのを知りました。
畠山氏の遺族を保護した謙信公が可哀想だと思いましたし、史実は「長続連父子VS 上杉謙信」ですよね(^^;
これは長続連氏の子孫が、自分達に都合の良い話や それらを書いたとする書の方を参考に書いてるのですかね?
本だけでなく、ネットでの情報も「上杉謙信が能登畠山氏を滅ぼした」とする記述が多いです。
多いに疑問ですね(-_-#)

つまらない事を書いてしまって済みません。
ちょっと憤慨しておりまして。

 それでは
有り難うございました。
歴史
2010/06/20 02:44
畠山義綱は永禄9年の政変で能登を追放されて近江坂本に移ってからは、六角・上杉と連動していますから、「能登畠山vs.上杉謙信」というのは的外れですね。

おそらく義綱の嫡子義隆が長続連に報じられていたので、長続連政権も能登畠山氏と考えているのでしょう。そうしないと永禄9年の段階で能登畠山氏滅亡になってしまうからかもしれません。長続連政権まで入れれば、天正5年まで能登畠山氏が続いたことになります。

また続連の次男連龍は、織田信長に救援を求めに七尾城から出ていたため助かっていますが、連龍はのちに前田利家与力になり、さらに子孫は金沢藩主前田家の家老になっているので、そのことで能登畠山氏は信長方という歴史像がつくられているのかもしれません。

能登畠山氏と近江余呉荘の関係をまとめた記事を作成中ですので、楽しみにしていてください。
佐々木哲
2010/06/23 09:49
佐々木様へ

 ご無沙汰してます。
ご返事ありがとうございます。
 また記事を楽しみにしています。

 今回は時間がないので
これにて失礼します。
歴史
2010/10/18 01:19
お忙しい中の御礼ありがとうございます。

読んでいただいたことが確認できますので、うれしく思います。
佐々木哲
2010/10/18 19:14

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