毛利氏と六角義堯

 吉川文書には、六角義堯書状が多く含まれている。それは、天正四年(一五七六)の足利義昭の備後下向を実現させたのが義堯だからである。もともと義堯は吉川元春から年頭や歳暮の祝儀を贈られるなど交流があった。実は毛利氏側は初め足利義昭の備後下向を迷惑がっており、足利義昭本人が依頼しても承諾しなかった。義堯が交渉に乗り出したことではじめて、吉川元春も毛利輝元へ取り成した(吉川文書)。そのため吉川文書に多くの義堯書状が残された。毛利氏も上杉氏と同様、足利義昭の要請は断っても義堯の要請に応えている。このことで義堯に全幅の信用を寄せていたことが分かる。
 義堯は、信長を挟み撃ちにするために東日本を視野に入れて、越後上杉謙信と甲斐武田勝頼・小田原北条氏政の三和を図り(上杉文書)、さらに加賀一向一揆や越前朝倉義景の遺児宮増丸とも連絡を取って(吉川文書)、織田信長包囲網を築き上げるのに成功した。上杉謙信と加賀一向一揆の和睦も、この一連の動きの中で実現したものだろう。
 また足利義昭に同行していた義堯のことを、承禎は「大本所」と呼んでおり、義堯が六角氏の嫡流であったことが確認できる(坂内文書)。義堯は江州宰相義久や徳川公義秀の後継者であることは間違いない。
 天正六年(一五七八)正月には、義堯自らが阿波・淡路衆を従えて和泉堺に着岸し、多武峰衆徒に援軍を要請している(談山神社文書)。翌二月三日には、織田信長によって近江国高島郡の支配を任されていた有力武将磯野員昌(丹波守)が突然出奔した(『信長公記』)。さらに同年には播磨三木の別所長治や摂津有岡の荒木村重らも立て続けに挙兵しており、それらの動きも義堯らの動きに応じたものと考えられる。

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