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zoom RSS 細川昭賢と毛利氏

<<   作成日時 : 2006/02/14 22:12   >>

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 吉川元春は使者今田経忠を立てて備後鞆に着津した足利義昭一行を訪れて祝儀を贈ったが、その際の(天正四年)十月二日および三日付の一連の文書が吉川文書に収められている。
 まず十月二日付のものは、足利義昭御内書(41)、真木島昭光(玄蕃頭)奉書(42)、真木島昭光書状(43)、小林家孝(民部少輔)書状(44)であり、また翌三日付けのものは上野秀政(大和守)書状(45)、昭賢書状(46)・畠山昭清(上野介)書状(47)・武田信景(右衛門佐)書状(48)である。
 このとき小早川隆景も祝儀を贈っており、そのときの目録である『礼銭遣方注文写』(49)と、これら吉川文書に収められている一連の礼状を比較することで、義堯が六角氏で、昭賢が細川氏であることが確認できる。
 『礼銭遣方注文写』に記載されている人物は、公方様・御局様・細川殿・同取次・上野殿・畠山殿・同取次・真木島殿・同取次・武田殿・小林殿・曽我殿・六角殿取次・同厩方・春阿弥・高五郎次郎・勝浦二人・千若・御厩方・柳沢殿である。
 この中でこれまで人物が特定できなかったのは、「細川殿」である。また吉川元春宛の礼状があって『礼銭遣方注文写』で人物が特定できなかったのは、昭賢である。両者を比較すれば、細川殿と昭賢が同一人物であるとすぐに理解できる。これまで特定できなかったのは、『大日本古文書』で昭賢を「畠山昭賢」と記したからだろう。目の前にある事実が先入観によって見えなくなることはよくある。これもその一例である。
 この昭賢書状では宛所に「進之候」という脇付があるのに対して、ほかの書状の脇付は「御宿所」である。脇付には「参人々御中」「人々御中」「進覧之候」「御宿所」「進之候」があり、この中では「進之候」がもっとも薄礼である。このときの足利義昭一行の中で昭賢がもっとも薄礼で済ませていたのは、昭賢の格式が高かったからである。この足利義昭亡命政権の中での序列は、将軍足利義昭、宛所に脇付を記さない六角義堯、脇付「進之候」を記す細川昭賢、脇付「御宿所」を記す幕府奉公衆という順になる。
 このような序列は、六角義堯が取次(事務方)と厩方(直属軍)を有し、細川昭賢と畠山昭清・真木島昭光が取次(事務方)を有していたことでも理解できる。
 実は毛利輝元が昭賢の身上の不如意を毎事心配し、そのことが本願寺より昭賢本人に伝えられるということがあった。それに対して昭賢が吉川元春宛に礼状を発給している(50)。『吉川正統叙目』で昭賢書状五通がまとめて収められていることでも(51)、昭賢の身分が高く、その動向が注目されていたことが分かる。
 まず二月三日付昭賢礼状(52)を見てみよう。

  為年甫祝儀、太刀一腰、馬一疋送給候、尤目出度候、
  猶慶賀従是重畳可令申候条、不能一二候、恐々謹言、
     二月三日    昭賢(花押)
     吉川駿河守殿
           進之候

 二月三日付というと、真木島昭光奉書や義堯礼状にも二月三日付のものがあった。義堯礼状と昭賢礼状は同日付であろうか。しかし昭賢礼状に足利義昭や六角義堯に関する文言がない。義堯礼状にも足利義昭や細川昭賢に関する文言がない。そのため真木島昭光奉書と義堯礼状・昭賢礼状はそれぞれ独立した文書である可能性があり、無理に関連づける必要はないかもしれない。
 さらに歳暮の祝儀に対する昭賢礼状(53)もある。

  為歳暮祝儀、太刀一腰、馬一疋給之候、御懇之至候、
  猶明春慶詞可申述、恐々謹言、
     十二月廿二日   昭賢(花押)
     吉川駿河守殿
           御返報

 十二月廿二日付というと、やはり義堯礼状も十二月廿二日付である。しかし昭賢礼状に義堯に関する文言が無いことから、関連づけて考える必要はないかもしれない。昭賢書状では、これ以後も宛名「吉川駿河守殿」に必ず脇付「進之候」「御返報」が付けられる。これは、脇付がなくなる義堯書状よりも厚礼である。この書札礼から、昭賢は義堯よりは下位であったことが分かる。
 このように六角義堯・細川昭賢はもともと吉川元春から祝儀を受ける立場にあり、しかも昭賢は毛利氏によってその身上が心配されるほどの人物であった。細川庶流出身ではなく管領家出身と考えられる。しかし義堯より下位であった。なぜだろうか。
 『細川両家記』によれば、細川晴元の次男が六角氏に保護されていた。当時足利義昭に同行していた細川氏有力被官薬師寺弼長(九郎左衛門尉)(54)の一字書出が、六角義弼(義治)の片諱字である。このことから、細川昭賢は六角氏に保護されていた細川晴元の子息と考えられる。昭賢の片諱字「賢」は、細川典厩家(管領家につぐ有力庶子家)の通字とも考えられるが、六角義賢(承禎)の片諱字の可能性もある。

【注】
(41)『大日本古文書』吉川家文書四八五号・足利義昭御内書。
(42)同四八六号・真木島昭光奉書。
(43)同五四四号・真木島昭光書状。
(44)同五五六号・小林家孝書状。
(45)同五四九号・上野秀政書状。
(46)同五五三号・畠山昭賢書状。
(47)同五五七号・畠山昭清書状。
(48)同五五八号・武田信景書状。
(49)『大日本古文書』小早川家文書二七一号『礼銭遣方注文写』。
(50)『大日本古文書』吉川家文書五五二号・畠山昭賢書状。
(51)同五五一−五号・畠山昭賢書状。
(52)同五五一号・畠山昭賢書状。
(53)同五五五号・畠山昭賢書状。
(54)四月十二日付河田長親宛薬師寺弼長書状(『歴代古案』三巻三四号)。『越佐史料』五巻三八一頁。

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