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zoom RSS 小早川隆景と六角義堯

<<   作成日時 : 2006/02/14 22:10   >>

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 足利義昭亡命政権が備後鞆津に到着したときに、義昭らが吉川元春に宛てた(天正四年)十月二日・三日付の一連の礼状の中に六角義堯礼状がない。このことは、『礼銭遣方注文写』の宛所に「六角殿取次」と「同厩方」があるものの、「六角殿」本人がないことと関連があろう。義堯本人の到着は遅れたのだろうか。
 実は『大日本古文書』では、これら十月二日・三日付の一連の礼状を、天正元年(一五七三)足利義昭が河内若江城に在城していたときのものとしている。しかし、小早川家文書(椋橋家什書第七巻)に、天正四年(一五七六)のものと特定することのできる十月二日付足利義昭御内書案(55)・六角義堯書状案(56)・武田信景書状案(57)があり、これら十月二日・三日付の一連の書状案が天正四年(一五七六)のものであったことが分かる。

  今度当国移座付而、早々為御礼、差越同名治部少輔段、
  尤悦喜候、殊分国中諸侯輩同前之儀、併馳走故候、次
  帰洛事、弥忠勤被頼思食候、委曲輝元可申遣候也、
     十月二日      御判
       小早川左衛門佐とのへ

  一札令披見候、下国之儀付而、椋橋治部少輔、太刀一腰、
  金覆輪、馬一疋、糟毛、給之候、尤快然候、猶重而可申候、
  恐々謹言、
     十月二日      義堯(六角殿之也)
      小早川左衛門佐殿
              進之候

  至此表就被多 公儀御座候、被差越御名代、御礼御申段、
  尤珍重存候、仍太刀一腰、馬一疋送給候、喜悦至極候、
  何様自是可申入候、猶弘平可被申候、恐々謹言、
     十月二日       信景(うら付け 武田右衛門佐)
     小早川左衛門佐殿
             御宿所

 これら三通の書状案は一枚の紙に書き継がれ、義堯は義昭御内書案に続けて自らの書状案を書いている。また義堯書状案の内容は尊大であり、その中に義昭に関する文言がなく、自らの下国を言っているだけである。小早川隆景の使者椋橋治部少輔(弘平)は、足利義昭下向に対する御礼だけではなく、別に義堯下向に対する御礼も述べたのだろう。さらにこの書状案から、義堯が自らの名字と官職を書き示す裏書を免除されていたことが分かる。裏書の免除は地位の高さを示している。小早川氏側でも「六角殿これなり」と敬称で注書を添えている。それに加え、義堯書状案の宛所「小早川左衛門佐殿」に脇付「進之候」が記されていることも注目できる。吉川元春とは以前から交渉があったが、小早川隆景とはこのときが初めてだったのだろう。あらたまって脇付を付けたと考えられる。ただし脇付「進之候」は格下の者に対して使用する脇付であり、義堯が上位者であることは間違いない。
 義堯書状案で「なお重ねて申すべく候」と述べられているものに相当するのが、前出の吉川文書に収められている(天正四年)十月五日付六角義堯書状であろう。その文中の「今度着津の儀につき、一札殊に懇意喜悦候」とある文言が、吉川元春・小早川隆景の両者が、義堯に御礼を述べたことを指していると考えられる。義堯が十月五日に贈った太刀一腰と馬一疋が、返礼の祝儀であったことが分かる。

【注】
(55)『大日本古文書』小早川家文書一五九号・足利義昭御内書案。
(56)同一六〇号・六角義堯書状案。
(57)同一六一号・武田信景書状案。

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