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zoom RSS 北畠・朝倉両氏の再興運動

<<   作成日時 : 2006/02/14 22:06   >>

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 天正四年(一五七六)十一月二十五日に伊勢国司北畠氏の本所北畠具教を始め北畠一族が、織田信長の密命によって滅ぼされた。足利義昭や義堯らが備後国鞆津に下向した翌月である。しかし北畠氏の有力庶子家・坂内御所の坂内亀寿(亀千代)は逃亡に成功し、北畠具教の弟朝親(具親)も奈良興福寺東門院を出て還俗し挙兵した。朝親はさっそく同年十二月六日付で坂内亀千代(亀寿)に書状を送り、協力を期待している(59)。また坂内亀寿から支援を求められた六角承禎も、天下静謐のためにも援助を惜しまないと伝えるとともに、北畠殿を相続する適当な人物がいなければ坂内亀寿本人が相続するよう勧めている(60)。

  国司御一類御生涯付、此方被頼入上者、天下静謐砌、
  随分馳走可申候、北畠殿可有御相続仁体於無之者、
  御家督御存知様、達 上聞、并大本所江異見可申候、
  勢州之儀御 調略此節候、恐々謹言、
     十二月十八日  沙弥承禎(花押)
     謹上 坂内亀寿殿

 六角承禎は北畠具教正妻の兄であり、しかも反信長陣営の中心人物として近江・伊賀で転戦していた。坂内亀寿が援助を求めるのに相応しい人物である。実は坂内亀寿の祖父坂内具祐は、このとき滅亡した北畠具教の叔父であり、従四位下参議まで昇進した人物である。坂内家は庶子家とはいえ公卿に列していた。しかも坂内亀寿の母は具教の娘であった。具教の正妻は承禎の妹であるから、坂内亀寿は承禎にとっては妹の孫に当たる。北畠一族の滅亡に直面して、承禎が坂内亀寿に北畠殿相続を勧めたのは当然であった。承禎は、このことを足利義昭と大本所に進言すると約束している。北畠氏は族滅の直後であり、大本所と呼ばれうる人物はいない。また大本所が北畠氏であれば、彼こそが北畠殿にふさわしい人物であり、あらためて坂内亀寿に北畠殿相続を勧めるはずはない。この大本所は北畠氏ではなく、承禎にとっての大本所であり、義昭と行動をともにしていた義堯である。
 こののち北畠朝親は承禎の娘を娶って六角氏と共同戦線を形成し、伊賀を本拠に伊勢各地で挙兵した。坂内亀寿も朝親と結び、御師実宝院を通じて熊野那智社に祈願している(61)。さらに坂内亀寿は反信長陣営の有力者武田勝頼にも支援をもとめた(62)。これも承禎の勧めによるものだろう。
 この時期、佐々木源兵衛尉が越前朝倉宮増丸(義景の遺児)や加賀の一向一揆と連絡を取っていたことが、吉川文書所収の(年未詳)十二月七日付武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状(63)で分かる。承禎の正妻が能登畠山義総の娘であり、承禎の娘が能登畠山義綱に嫁いだというように、六角氏と能登畠山氏は重縁を結んでいた。前述のように義堯が能登畠山氏旧臣長景連を通して上杉謙信に書状を披露したのも、このような六角氏と能登畠山氏の関係による。承禎と正室畠山氏との間には義治(四郎、右衛門尉)・高盛(次郎左衛門尉、中務大輔)・高賢(次郎左衛門尉)が生まれた。また加賀一向一揆の本所である本願寺顕如の正妻は、六角氏猶子であった(64)。
 このように六角氏は越前朝倉氏、能登畠山氏、越後上杉氏など北陸道の諸大名と結び付きが強く、北陸道管領という系譜伝承(65)も有している。そのため佐々木六角一族が北陸方面で活躍することは容易であった。承禎が晩年のある時期に能登に在国したのも(66)、この佐々木源兵衛尉の動向と関連があろう。

【注】
(59)(天正四年)十二月六日付坂内亀千代宛北畠朝親書状(坂内文書)。兵庫県坂内文書(東大史料編纂所影写本)。『三重県史』資料編近世1、一章−二二号。
(60)(天正四年)十二月十八日付坂内亀寿宛六角承禎書状(同文書)。『三重県史』資料編近世1、一章−二三号。
(61)(天正五年)八月二十七日付実宝院宛北畠朝親立願状(和歌山県熊野那智大社文書)。『三重県史』資料編近世1、一章−二五号。(天正五年)九月二日付実宝院宛坂内亀寿書状(同文書)。『三重県史』資料編近世1、一章−二六号。
(62)(天正五年)九月十二日付坂内亀寿宛武田勝頼書状(坂内文書)。『三重県史』資料編近世1、一章−二七号。
(63)『大日本古文書』吉川家文書一三〇三号・朝倉宮増丸書状。
(64)『厳助往年記』弘治三年四月十七日条。
(65)沙沙貴神社所蔵佐々木系図、『寛政重修諸家譜』山岡系図ほか。
(66)石川県裏本友之氏所蔵佐々木義賢入道自画像。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
佐々木源兵衛尉とは何者でありましょうか
近江源氏
2006/02/25 14:29
@北陸地方で活動していること、A承禎の子孫が「佐々木源兵衛」を名乗ることを考えれば、能登畠山氏を母に持つ義治(承禎の長男)かとも思えますが、確証はありません。
佐々木哲
2006/02/26 04:02

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