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zoom RSS 六角義堯の堺上陸

<<   作成日時 : 2006/02/14 22:04   >>

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 天正六年(一五七八)正月七日、義堯が足利義昭の先方として阿波・淡路両国の兵を従えて和泉堺に着岸するとともに、大和多武峰の衆徒に出陣を求めたことを、談山神社文書所収の義堯書状(67)で知ることができる。

  今度御入洛、為御先勢、阿淡両国之衆相供、至堺津着岸候、
  然者此砌、励戦功被抽忠節者、別而可有御褒美之由被仰出条、
  満寺之申事於在之者、達上聞可申遂其望候、猶遊佐弾正左衛門
  可申候也、恐々謹言、
     正月七日   義堯(花押)
      多武峰衆徒御中

 河内守護畠山氏の旧臣遊佐弾正左衛門を使者としているのは、もともと大和国と河内畠山氏の関係が深かったことによろう。畠山昭高滅亡後、義堯が畠山氏旧臣をも統合していたことが分かる。これが義堯が畠山氏と間違われる理由にもなったと考えられる。永禄六年(一五六三)足利義昭(当時一乗院覚慶)が六角氏に保護を求めた当時、畠山昭高(政頼)・守護代遊佐信教(新次郎)・有力被官安見宗房(美作守)ら河内守護畠山氏一行も六角氏に保護されていた。その縁で義堯のもとに畠山旧臣が集まったと考えられる。
 同じく天正六年(一五七八)には、浅井氏旧臣で信長の有力武将となっていた磯野員昌(丹後守)が突然出奔した(『信長公記』)。 沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、磯野氏は佐々木大原氏の子孫で、幕府奉公衆大原
(白井)民部少輔持泰の弟左近衛将監信泰が伊香郡磯野山城主となったことに始まるという。磯野氏は京極氏の有力被官であったが、浅井亮政と激しい抗争を繰り広げたのち浅井氏に従属してその重臣になった。磯野員昌は、姉川の合戦後も要塞佐和山城にあって対信長戦線の最前線にいたが、元亀二年(一五七一)ついに窮して城兵を小谷城に戻すことを条件に信長に降りている。信長は員昌を優遇して、近江国高島郡を与えるとともに、弟織田信勝(系図では信行)の嫡子信澄(七兵衛)をその養子とした。沙々貴神社本の六角義郷の項には、員昌が六角氏嫡子(系図では義郷)を預かっていたという記事がある。浅井氏滅亡後に、員昌が江州殿の嫡子を預かっていた可能性は十分にある。天正六年の員昌の出奔は、義堯の動きに応じたものと考えられる。
 播磨三木の別所長治や摂津の荒木村重らの挙兵は、足利義昭を通して毛利氏に伝わっており、やはり彼らも義堯の動きに応じて兵を挙げたと考えられる。
 まず足利義昭は播磨三木城主別所長治の挙兵を毛利氏側に伝えるとともに、毛利氏に播磨への出陣を促している(68)。このことは、別所長治の挙兵が義堯の動きに呼応したものであることを示している。しかし上杉謙信が三月十三日京都に向かい出発する前日に没したことは、信長包囲網に大きな穴を開けることになった。
 それでも同年十月摂津で荒木村重が挙兵した。そのことも足利義昭側から毛利氏側に伝えられており(69)、荒木村重の挙兵が義堯の動きに呼応したものであることが分かる。

【注】
(67)『談山神社文書』六号・六角義堯書状。
(68)『大日本古文書』吉川家文書九二号・(天正六年)三月十九日付吉川元春宛足利義昭御内書、および同四九九号・同日付同宛真木島昭光奉書。
(69)同五〇三号・(天正六年)十一月二十四日付吉川元春宛足利義昭御内書。

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