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zoom RSS 江州入替合戦

<<   作成日時 : 2006/02/14 22:00   >>

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 天正十年(一五八二)六月二日に本能寺の変が起きた。一般に光秀は、近江平定に時間を浪費したために十分に体勢を整える暇もなく、同月十三日の山崎の戦いで秀吉に敗れたと考えられている。『江源武鑑』によれば、この間に江州入替合戦があったという。本能寺の変で信長が倒れると、六角氏は天下に号令する機会と見て、琵琶湖を水路にして光秀の居城坂本城を攻めたが、明智軍は陸路で六角氏の居城観音寺城と安土城を攻めた。これを江州入替合戦といい、観音寺城と安土城が落ちるを見た六角軍は戦意を喪失して散り散りに落去していったという。たしかに近江国で合戦があったことは『兼見卿記』にも見える。けっして小競り合いではなかった。光秀の近江侵攻は決して無駄な軍事行動ではなかったことが分かる。むしろ六角氏の抵抗が、細川藤孝(幽斉)・忠興父子や筒井順慶ら与力大名の光秀離反を招き、その後の山崎の戦いでの光秀の敗軍につながったと考えることもできる。このとき六角軍の指揮をとった人物が分からないが、おそらく『宗及他会記』天正八年(一五八〇)二月二十二日条に登場する佐々木殿であろう。
 その後の六角氏の動向は、津田宗及の子息宗凡によって記された『宗凡他会記』(天王寺屋会記)によって知ることができる。同記によれば、天正十八年(一五九〇)五月二十九日小田原陣中で豊臣秀吉が津田宗及を招いた茶会で、「江州六角殿、マキノシマケンハ」が侍した。この江州六角殿は、足利義昭の近臣真木島昭光(玄蕃頭)を伴っていることから、義堯かその後継者である可能性が高い。承禎の嫡子義治が豊臣政権に取り立てられるのは、『鹿苑日録』文禄元年(一五九二)九月関白豊臣秀次によって犬追物稽古のために召し出されたことによる(74)。やはり江州六角殿は、義治ではない。小早川文書で六角殿と呼ばれている義堯かその近親者であろう。
 沙沙貴神社本では、義堯に相当する人物義頼(実綱)が天正十年(一五八〇)六月に没したと伝えられている。この系譜伝承が事実であれば、義堯は前述の江州入替合戦のときに没したことになる。そうであれば小田原の陣に参加した江州六角殿は、足利義昭の養子と伝わる六角義康(沙沙貴神社本では義郷)であろう。

【注】
(74)『鹿苑日録』文禄元年九月六日条。

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