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zoom RSS 1995年東大前期・国語第一問「他者への眼差し」

<<   作成日時 : 2006/02/11 22:29   >>

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市村弘正『小さなものの諸形態』より出典。
【問題文】
 物との結びつきを根本的に変質させ、社会との結びつきを根底的に変化させつつある私たちにとって、そこでの出来事の生成と着床のあり方は、経験におけるそれとは正反対である。正反対であるような変質であり、変化なのである。その「結びつき」が含んでいた物事のあらゆる局面は、時間とともに結晶するのではなく、反対に一つ一つその aリンカクと形状と特性とを曖昧にし消失していく。それはくっきりと刻まれ印づけられるということがない。この限りで現代の私たちを貫く「自然過程」は、見かけのどのような装いにもかかわらず、衰弱であり減退である。私たちが何を失くし何を忘れ去ったのかさえ bハンゼンとしない「忘却の忘却」は、その端的な現れにほかならない。
 ささやかでも全力を振りしぼってこの時代傾性に抵抗しようとするなら、少なくとも私たちには、喪失したものに対する鎮魂と消滅しつつあるものに対する敬意とを含むような認識が欠かせないだろう。失われて過去に深く埋もれたままの物事に、それが待ちうけているであろう新たな眼差しを注ぎ、現に消滅しつつある物事には、それが充分にかけがえのない「働き」をなしとげたのかを見届けねばならない。事物一つ一つの身の上に投じられる鎮魂的認識と物質的想像力とが、私たちには肝要なのである。そうして事物の伝記を形づくる。その物事の来し方と行く末とを貫く運動に対して注意深くなければならない。
 かつてホッブスは、その感覚の解剖学において、物事の中断された運動や消失ないし除去された対象が、そのあとに残す感覚的映像のせめぎあいについて考え、それを「衰えゆく感覚」(decaying sense)として把えた。人間が目にした事物の印象や耳にした物音の行方に注意を向けて、それが消滅したり遠ざけられたあとに、衰退しながら「なおも残る」感覚的な経験を力学的な運動として捉えようとしたのである。それを借りて言えば、私たちの経験世界は、激烈な「衰えゆく感覚」運動のなかにあるのではないか。いわば感覚は定着すべき基礎をもたず、ただちに映像化の過程に移行してしまうのではないか。感覚の対象との結びつきが弱ければ弱いほど、その衰退の過程は加速され、交替のサイクルは短縮されるだろう。物事との cコウショウが希薄であれば、ホッブスが言うように、私たちの感覚映像は、「日中の騒音における人の声」程度にしか刻印されないからである。
 「衰えゆく感覚」の与件そのものがすさまじいことは言うまでもないだろう。たとえば「人間について大地は万巻の書より多くを教える。大地が人間に抵抗するがゆえに。」(サン=テグジュペリ)という生の基礎としての大地自体がいまや決定的な変貌をとげつつある。地表を隈なく覆おうとする開発の全精力は、「抵抗」すなわち自然が帯びる「不快さ」の除去に集中しているように見える。削られ均され整えられた土地という名の物件は、種々様々の抵抗を孕んだ大地の形姿そのものを「衰えゆく」ものとするだろう。曲がりくねり凸凹があり障害物を含むからこそ大地なのだとすれば、その映像を後退させ衰弱させて、直線や平面という幾何学的図形の印象が取って代わるのである。こうして私たちの「内面」は幾何学化されていくのだ。しかも、万巻の書にまさるという「抵抗」を排除する一方で、ますます学習と教育に熱を上げている。どこで何を学ぼうというのだろうか。
 そうであるなら、私たちは、消滅して「もはやない」と「まだなお」とのそれに注目すべきではないか。私たちにとって「もはやない」は、「まだない」を対項として予想することができるのだろうか。あるいは不可欠の dケイキとしてそれと切り結ぶことがないのではないか。つまり、「もはやない」はそれとして成立しえず、したがって「まだない」を着床させることができずに、いわば繰りかえして流産してしまうのではないか。そうであるとすれば、むしろ「もはやない」を成り立たしめ、忘却の忘却からそれを救い出すためにも、私たちは「まだなお」に対してこそ注意深くなければならないだろう。ここで「まだなお」とは、ホッブスの「なおも残る」映像すなわち残像である。少なくとも「もはやない」ものの危機的事態からすれば、それは残像であるほかないだろう。私たちが身を置いているのは、そのような「残像」文化なのではないか

【設問】 
(一)「その端的な現れ」(傍線部ア)とはどのようなことか、「その」の内容を明らかにしつつ説明せよ。
(二)「鎮魂的認識と物質的想像力」(傍線部イ)とはそれぞれどのようなことか、わかりやすく説明せよ。
(三)「『抵抗』を排除する」(傍線部ウ)とはどのようなことか、「抵抗」の内容を明らかにしつつ説明せよ。
(四)「私たちは『まだなお』に対してこそ注意深くなければならない」(傍線部エ)はなぜか、その理由を「まだなお」の内容を明らかにしつつ説明せよ。
(五)「私たちが身を置いているのは、そのような『残像』文化なのではないか」(傍線部オ)とあるが、筆者は現代の文化についてどのように考えているか、分かりやすく説明せよ。
(六) a リンカク   b ハンゼン   c コウショウ   d ケイキ

解答枠は(一)〜(三)が1行、(四)(五)が2行

【解答例】
(一)ものやひととのリアルな関係を失いつつある現代の傾向。
(二)消えゆくものへの眼差しとまだ見ぬものへの眼差し。
(三)私たちの理解を超えた自然を「不快」なものとして排除するとこと。
(四)「残像」としての思い込みが、今の私たちにとって真に目の前にある大切なものを見えなくさせてしまっていることに気づくべきだということ。
(五)筆者は現代文化をヴァーチャル・リアリティ的なものと捉えており、人間理性を越えた真理とは関係をもてなくなっていると考えている。
(六) a=輪郭  b=判然  c=交渉  d=契機

【解答のコツ】
(一)段落最後の文は段落のまとめの文であると同時に、次の段落への橋渡しをする文でもある。傍線部アを含む文も段落の最後の文であるので、次の段落を見てみると、「この時代の傾性」とある。これが傍線部アの言い換えだ。
(二)傍線部イを含む文は、前文の内容の言い換えであることに気づこう。接続詞なしに続く文は、言い換えの文だと思っていい。あとは自分の言葉に代えるだけだ。
(三)傍線部ウも段落の最後の文だ。傍線部ウの「抵抗」という言葉に注目すれば、これはこの段落のキーワードであり、次の段落には見えないから、この段落の内容をまとめるといい。とくに「大地」という言葉で、人間理性を超えた自然の驚異を表現している。人間はそれを邪魔なもの・不快なものとして排除しようとしているのだ。
(四)傍線部エをふくむ文は、「そうであるならば」という言葉で始まるのだから、前文の内容を受けていることは明らかだ。「まだなお」が何を意味しているのかを自分の言葉で簡潔に言い表した上で、説明すればいい。過去において真実であったものを、今でも真実だと思っている「思い込み」と考えると簡単に答えられる。
(五)傍線部オは文章全体の最後だから、文章全体をまとめるといい。ここで、傍線部オで言われている「残像」が、ヴァーチャル・リアリティティのことだと気づくと簡単だ。しかも筆者は、私たちが見ているものが物そのものではなく、物そのものの影だといっている。これは、ギリシア哲学者プラトンの「洞窟の比喩」で主張されている影の世界と同じだ。わたしたちは思い込みに縛られて、目の前の真実が見えなくなってしまっているのである。

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