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zoom RSS 六角義郷の研究・序

<<   作成日時 : 2006/02/08 23:24   >>

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 系図では実名(諱)の真下から血筋・伝承を意味するが系線が引かれているが、沙沙貴神社所蔵佐々木系図では系線の右脇に官位や通称・幼名などが列記され、左脇に母が記されている。母親が明記されているのは、同系図が女系を重視した西日本型系図だからである。その母親の記述の後に、本人の事績が記述されている。
 同系図によれば六角義秀の嫡子義郷は、位階は従五位上・従四位下・従四位上・正四位下を経て、官職は右兵衛佐・左衛門督・左近衛中将・近江守を歴任している。また義郷の母は、織田信長の娘と伝えられている。つぎに彼の事績を見てみよう。
 義郷は、父義秀が没した当時まだ幼少だったため、北近江の戦国大名浅井長政に擁立されたと伝えられている。天正元年(一五七三)に浅井久政・長政父子が滅亡すると、羽柴秀吉に預けられ、さらに信長によって近江高島郡を与えられていた浅井氏旧臣磯野員昌に預けられたという。天正十年(一五八二)本能寺の変に始まる明智光秀の乱では、光秀の安土城攻撃以前に蒲生賢秀によって救い出されて、室町幕府最後の将軍足利義昭の養子となっていたが、天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の命令で生家六角氏に復したと伝えられている。そして義郷は、この年に近江八幡山城主となったばかりの豊臣秀次の与力大名となり、近江国愛智・野洲郡内で十二万石を領して従四位上左衛門督に補任されたという。翌十四年(一五八六)に義郷は豊臣姓を与えられるとともに、侍従に補任されたと伝えられている。
 豊臣秀吉が関白に補任されたことで、武家でも、有力大名は侍従・近衛少将・近衛中将・参議・中納言・大納言という公達型の昇進をした。このように天皇に近侍する侍従・近衛次将(近衛府の次官)を経て昇進していくことは、公家でも摂関家・精華家・大臣家・羽林(近衛府の唐名)家などの公達に限られ、勧修寺家や日野家などの名家は近衛次将ではなく事務官僚である弁官の功績によって参議以上に至った。そのため侍従・近衛次将を経て出世することはたいへん名誉であり、「公家成り」と呼ばれた。侍従に補任された義郷はその第一歩を踏み出したことになる。
 義郷は同十六年(一五八八)四月聚楽第行幸に供奉して和歌会にも出席、その直後に右近衛少将に補任され、文禄元年(一五九二)にも聚楽第行幸に供奉して正四位下中将に補任されたという。同年に始まった文禄の役に義郷も従軍したが、秀次の命令によって近江永原城主に取り立てられて帰京したと伝えられている。ところが義郷は同四年(一五九五)の秀次謀反事件で失脚し、近江大津城主京極高次に預けられたという。慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦いでは西軍に参陣しなかったため徳川家康から感状を与えられ、元和九年(一六二三)に没したと伝えられている。

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