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zoom RSS 六角義郷の母織田氏

<<   作成日時 : 2006/02/08 23:18   >>

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 義郷の経歴と同じ人物が『太閤記』に登場する。左衛門侍従豊臣義康である。沙沙貴神社本では義康という本名(前名)を伝えていないが、『六角佐々木氏系図略』では義郷の本名を義康と伝えている。しかも義康の官職は左衛門督・右近衛少将と伝えられており、実名義康と官職左衛門督という事跡は、まさに左衛門侍従豊臣義康の事跡と一致する。
 また『六角佐々木氏系図略』では、義康(のち義郷)の母が織田信康の娘であったと伝えている。義康の名乗りも外祖父信康の一字を用いたものと考えられる。ただし『江源武鑑』では信康ではなく、信広の娘と伝えている。
 織田氏はもともと越前織田剱神社の神官の家柄だったが、三管領のひとり越前守護斯波氏に登用されて、斯波氏の分国のひとつ尾張国の守護代になった。
 八代将軍足利義政のとき斯波義敏と越前守護代甲斐将久(常治)が対立し、幕府は義敏を解任した。さらに甲斐将久が没すると朝倉敏景(孝景)が台頭し、義敏の子息義良を廃して渋川義廉を斯波氏家督とした。渋川氏は足利尊氏の弟直義の正妻や、二代将軍義詮の正妻源幸子の実家であり、室町期には九州探題を勤める足利一門の名門であった。幕府は、その渋川氏出身の義廉を斯波氏家督としたのである。しかし義敏・義良父子の復帰運動もあって、幕府の判断は二転三転して義敏が守護に復帰することもあった。これが応仁・文明の乱の原因の一つとなった。
 山名宗全のクーデタで守護に復職することができた義廉は、応仁・文明の乱で西軍に走り、在京の尾張守護代織田敏広(伊勢守)も義廉を支持した。ところが乱の最中、朝倉敏景は義敏と不和のまま東軍に引き抜かれ、斯波氏に代わって越前守護に補任された。斯波氏は分国のうち越前を失い、以後越前は朝倉氏の分国になった。斯波氏に残された分国は尾張・遠江であるが、遠江守護はこののち今川氏に取って替わられる。
 尾張では、在京の尾張守護代織田敏広が守護義廉に従い西軍となっていたが、実際に在地支配に当たっていた尾張守護代の又代織田敏定(大和守)は、守護代敏広に対抗して東軍の義敏・義良(義寛)を支持して急速に台頭した。しかし隣国の美濃守護代斎藤妙椿が、娘婿である敏広(伊勢守)を支援した。
 その結果、守護代の地位は大和守系織田氏に移ったが、織田氏の嫡流である伊勢守系織田氏は岩倉城に拠って尾張上四郡を領した。岩倉織田氏である。その老臣が犬上城主織田氏である。
 それに対して守護代を獲得した大和守系織田氏は、斯波氏の守護所清洲城に拠って尾張下四郡を領した。清洲織田氏である。その老臣が清洲三奉行織田弾正忠・織田筑前守・織田九郎である。信長の家系は清洲三奉行のひとり織田弾正忠家の出身であり、父信秀のときに海部郡勝幡城主として尾張・伊勢を結ぶ要所尾張西南部の津島一帯を支配して財力をつけて急速に台頭した。その財力は、京都御所修理の献金や伊勢神宮造営の奉納によって知ることができる。信秀のときに、すでに尾張統一が狙える位置にいた。

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