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zoom RSS 犬山之伊勢守息女

<<   作成日時 : 2006/02/08 23:16   >>

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 『六角佐々木氏系図略』でいう信康に相当する人物としては、信長の叔父で犬山織田氏を継いだ織田信康(与次郎)と、伊勢守系織田氏の直系であった岩倉織田信安が考えられる。しかし続群書類従本をはじめ織田系図に、六角義郷の母に相当する女性を見つけることができない。義郷(義康)の母が織田氏であるというのは、六角氏側にのみ伝えられている。佐々木系図の系譜伝承は、やはり誤伝であろうか。
 天正十年(一五八二)に発給された三月七日付松井友閑宛織田信長黒印状写によれば、甲斐武田勝頼が滅亡したとき、岩倉織田氏と犬山織田氏(犬山銕斎)が武田氏の許にいた(1)。両織田氏は信長に対抗して、甲斐武田氏のもとにいたのである。しかも当時、甲斐武田氏と六角氏は同盟関係にあった。
 このとき甲斐に滞在していたのは、武田勝頼養女(実は武田義信娘)の婿六角次郎と若狭武田五郎、そして六角承禎の妹婿・旧美濃守護土岐頼芸であった。このうち六角次郎は、名刹恵林寺が彼を匿ったという理由で焼き打ちにされているように、信長の憎しみを一身に負っていた。前述の信長黒印状写によれば、土岐頼芸と岩倉・犬山両織田氏が助命されたにもかかわらず、六角次郎と若狭武田五郎は潜伏先で見つけ出されて切腹させられたという。
 この六角次郎は、承禎の次男中務大輔高盛と考えられる。しかし高盛は生き延びて、のちに徳川家康に仕えて江戸幕府旗本となっている。六角次郎・若狭武田五郎両人の切腹は未確認情報であったか、六角次郎と六角高盛は別人だったと考えられる。
 六角氏と若狭武田氏の組み合わせに注目すると、天正四年(一五七六)備後に下向した将軍足利義昭に同行した六角義堯(大本所)と若狭武田信景(右衛門佐)がいる。義昭・義堯・信景は、三人揃った書状案を小早川家文書に残している。六角次郎・若狭武田五郎の二人が切腹を命じられたという情報も、決していい加減なものではない。六角次郎と若狭武田五郎は、義堯と信景かもしれない。
 沙々貴神社本の系譜伝承では、義秀の弟義頼は、はじめ若狭武田氏の養子になったが六角氏に帰家して、天正十年(一五八二)本能寺の変に始まる明智光秀の乱で六月に没したと伝えられている。この系譜伝承は、六角氏と若狭武田氏の関係の深さを隠喩していよう。実際に六角定頼の娘が、若狭武田信豊に嫁いで義統(義元)・信景らを生んでいる。
 また義堯は、甲斐武田勝頼と同盟を結んで天正年間の織田信長包囲網を築いた当の本人であり、上杉謙信や毛利輝元が包囲網に加わったのも義堯の力による。天正六年(一五七八)正月義堯は淡路・阿波の兵を従えて和泉堺に上陸しているが、その後の動向は不明である。包囲網の中心人物義堯は信長をもっとも苦しめた人物である。義堯本人やその一族であれば、当然のこと信長の憎悪の的である。
 岩倉織田氏や犬山織田氏が、そのような六角氏と行動を共にしていたことは注目できる。彼らと六角氏の接点が、義郷の母と考えられるからだ。
 実は犬山織田信康の子息与康の娘に、続群書類従本の織田系図では「浅井」という注記がある。信康は信長の叔父であり、与康は信長と従兄弟の関係にある。江戸時代に成立した『以貴小伝』は、浅井長政の正妻お市の方が信長の従兄弟の娘であったという異説を伝えており、まさに信長の従兄弟である与康の娘がお市であった可能性もある(2)。もちろんお市と同一人物であると即断はできないが、織田与康の娘が浅井氏と関係があることは認めていいだろう。
 犬山織田氏が、元亀年間の信長包囲網の一角浅井氏と関係が深ければ、包囲網の盟主六角氏にもつながってくる。しかも浅井長政とお市の縁談をすすめて浅井・織田連合の成立に尽力したのは、六角氏である(3)。長政が六角氏の家臣であり/六角義郷を擁立したという沙沙貴神社本の系譜伝承は、これらの事実を踏まえたものと考えられる。
 この与康は、永禄四年(一五六一)三月日付禁制状(黒田剣光寺・籠守勝手神社・黒田白山社)を残した織田勘解由左衛門尉広良と同一人物と考えられる(4)。織田広良は、永禄五年(一五六二)美濃斎藤竜興との合戦によって軽海で戦死している。
 系図や編纂物で実名が正しく伝わらないことは多い。実際に信長の弟信行の実名は、発給文書を見るかぎり信勝(勘十郎)・達成(勘十郎、弾正忠)・信成(武蔵守)である(5)。与康も広良であった。
 実は岩倉織田氏歴代当主の通字は〈広〉である。明徳四年(一三九三)六月十七日付けの置文を越前織田剱神社に残している織田信昌・将広(兵庫助)父子以後、織田氏嫡流である伊勢守系織田氏は、淳広・久広・郷広・敏広・寛広・広高など諱字に〈広〉の字を使い続けている。そして広良も〈広〉を使用している。このように代々に共通する諱字を通字という。さらに広良の官途名「勘解由左衛門尉」は、かつて永享年間(一四二九−四〇)頃の尾張守護代織田教長の名乗りと同じである。織田氏にとっては勘解由左衛門尉という官途名には重みがある。その勘解由左衛門尉を称して、岩倉織田氏の通字〈広〉を使用した織田広良は、岩倉織田氏の養子になっていた可能性さえある。
 このように見て来ると、義郷(義康)の母が、信康の娘とも信広の娘とも伝えられていることが理解できる。『信長公記』で信安と伝えられている岩倉織田氏の実名には、実際には〈広〉の字が使用されていたと考えられるからである。織田系図で与康と伝えられる人物の実名が広良であったことは、この仮説を支持している。義郷の外祖父「信広」を、必ずしも信長の庶兄信広(三郎五郎・大隅守)と考える必要はなく、岩倉織田氏や犬山織田氏の関係者と考えればいい。『江源武鑑』で信広の娘と伝えられている義郷の母は、織田伊勢守息女であった可能性が高い。
 実は、義郷の母と考えられる女性の資料がある。信長は天正三年(一五七五)正月十一日に、美濃斎藤道三の子息利堯(玄蕃助)に美濃福光郷ならびに牛洞野村月成方を支給するとともに、その福光郷のうち五〇貫文を犬山之伊勢守息女に相渡すように命じている(6)。利堯は、天正十年(一五八二)六月の清洲会議後に織田信孝(信長三男)に仕えているが(7)、それまでの動向は不明である。この伊勢守息女は義郷(義康)の母と考えられるが、利堯は彼女の女佐の臣であった可能性もある。もともと岩倉・犬山織田氏は美濃守護代斎藤氏と連携して尾張上四郡を維持しており、美濃斎藤氏との関係は強い。信長が織田伊勢守息女を養女にして、六角氏に嫁がせたと考えられる。彼女が義郷の母であろう。

【注】
(1)(天正十年)三月七日付松井友閑宛織田信長黒印状写。奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』下巻(吉川弘文館、一九八八年)九七八号。
(2)『東浅井郡志』二巻、三〇六−七頁。
(3)和田惟政披露状写(福田寺文書)。滋賀県福田寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『東浅井郡志』四巻、福田寺文書一号。
(4)『木曽川町史』。『清洲町史』では、この織田広良を清洲織田達勝(大和守)の弟監物尉広孝の子息勘解由左衛門尉(『言継卿記』天文二年八月四日条)と同一人物と見なしているが、年代が合わないように思われる。
(5)新井喜久夫「織田系譜に関する覚書」(『清洲町史』四八三−五四〇頁)。
(6)天正三年正月十一日付斎藤玄蕃助宛織田信長朱印状(南陽堂楠林氏文書)。『織田信長文書の研究』下巻、四九四号。
(7)岡本良勝・斎藤利堯宛羽柴秀吉披露状写(『大日本古文書』浅野家文書一〇号)。

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