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zoom RSS 左衛門侍従義康による六角氏再興

<<   作成日時 : 2006/02/08 23:15   >>

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 『太閤記』の「関白職并家臣之面々任官之事」で、任官した人々の最後に左衛門侍従豊臣義康が名を連ねている。沙沙貴神社本でも、義郷の豊臣賜姓と侍従任官の記事がある。この任官は天正十三年(一五八五)のことだが、沙沙貴神社本では天正十四年(一五八六)としている。実は『歴名土代』でも、天正十四年に従四位下に叙位された五辻元仲に続けて、義康ら公家成り大名がまとめて記されており、この一年のズレは十分に許容範囲である。
 また『兼見卿記』天正十三年(一五八五)十月六日条では、丹羽長重(五郎左衛門尉侍従)・細川忠興(越中守侍従)・織田信秀(三吉侍従)につづいて武衛侍従義康が記されている。『太閤記』と比較することで、左衛門侍従義康と武衛侍従義康が同一人物と分かる。沙沙貴神社本では義郷の初官を右兵衛佐としており、その兵衛の官の唐名が武衛であることを考慮すれば、『兼見卿記』の武衛侍従義康は義郷と同一人物である。義郷は右兵衛佐・左衛門督を歴任しており、まさに武衛侍従であると同時に左衛門侍従であった豊臣義康と同一人物である。
 室町期には三管領のひとり斯波氏が、兵衛佐を世襲官途として「武衛」と称されていた。六角義郷(義康)の存在を知らなければ、旧尾張守護斯波氏の出身である津川義近を武衛侍従義康と同一人物と見るだろう。しかし義近は天正十三年(一五八五)正月十日の津田宗及の茶会に出席したとき、「ふゑい三松様」と入道名で呼ばれている(『天王寺屋会記』宗及他会記)。すでに出家していた義近(三松)を、義康と同一人物と考えることは難しい。
 左衛門侍従義康は、『当代記』によれば前年/天正十五年(一五八七)の九州征伐の記事で四百人の軍勢を動員している。自らの軍事力を有する大名であった。六角義郷の系譜伝承と一致する。ただし義康と義郷が同一人物であれば、石高については沙沙貴神社本の記述に錯誤がある。四百人という動員兵力は、当時一万石を領していた池田長吉(備中守)と同人数であり、義康も一万石の大名と考えられる。沙々貴神社本で十二万石と伝えるのは、義郷が大名に取り立てられた天正十三年(一五八五)に近江八幡山城主となった豊臣秀次の石高を、誤って義郷の記事に混入したものと考えられる。
 錯誤の存在を指摘するだけではなく、このように錯誤の根源を探究することで、錯誤の中に含まれている史実を探し出せる。わたしたちは新しいことを学ぶとき、初めは従来の規則を当てはめる。そして失敗することで、他にも規則があることを学ぶ。そのため、人がどのような誤りをしたかを見れば、その人がもともと無意識のうちに有していた規則を知ることができる。これが、錯誤を学的探究に用いる方法である。系図作者が義郷の石高と秀次の石高を誤ったことで、義郷の大名取り立てが天正十三年(一五八五)であったという系譜伝承が先にあり、そこから同年に近江八幡山城主になった秀次の十二万石という石高を混入させたことが分かる。ここからさらに、義郷が近江八幡山城主になったことがあるのではないかと、仮説を立てることもできる。

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