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zoom RSS 聚楽第行幸

<<   作成日時 : 2006/02/08 23:12   >>

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 天正十六年(一五八八)四月には後陽成天皇が豊臣秀吉の聚楽第に行幸したが、『聚楽亭行幸記』に公家成り大名のひとりとして左衛門侍従義康が記されている。

  加賀少将利家朝臣 穴津侍従信兼朝臣 丹波少将秀勝朝臣
  三河少将秀康朝臣 三郎侍従秀信朝臣 金吾侍従 
  御虎侍従      左衛門侍従義康朝臣 東郷侍従秀一朝臣 
  北庄侍従秀政朝臣 松島侍従氏郷朝臣 丹後侍従忠興朝臣
  三吉侍従信秀朝臣 河内侍従秀頼朝臣 源五侍従長益朝臣
  越中侍従利長朝臣 敦賀侍従頼隆朝臣 松任侍従長重朝臣 
  岐阜侍従照政朝臣 曽根侍従貞道朝臣 豊後侍従義統朝臣
  伊賀侍従定次朝臣 金山侍従忠政朝臣 井伊侍従直政朝臣
  京極侍従高次朝臣 立野侍従勝俊朝臣 土佐侍従元親朝臣

 義康の席次は、前田利家・織田信包(信長弟)・豊臣秀勝(秀吉養子、秀吉甥)・豊臣秀康(秀吉養子、徳川家康次男)・織田秀信(信長嫡孫)・豊臣秀俊(秀吉養子、木下家定五男)・御虎侍従に次いでおり、豊臣政権下で高い地位にある。左衛門侍従義康は天正十三年(一五八五)の侍従任官のときには、丹羽長重・細川忠興・織田信秀よりも下位であった。聚楽第行幸までの間に、左衛門侍従義康の序列が飛躍的に上昇している。
 また実名の下に氏姓制度の姓〈朝臣〉が記されている者は四位以上であり、〈朝臣〉が記されていない金吾侍従・御虎侍従は五位である。すでに参議・三位以上に補任されていた織田信雄(内大臣、信長次男)や徳川家康(駿河大納言)・豊臣秀長(大和中納言、秀吉弟)・豊臣秀次(近江中納言、秀吉甥)・宇喜多秀家(備前宰相、秀吉養子)は、扈従の公卿に列している。ここで昇殿を許されている朝臣は四位であり、その中にいる義康朝臣はもちろん四位の殿上人である。
 行幸での歌会でも義康は和歌を詠じており、そこでは左衛門督と注記されている。沙沙貴神社本で、義郷が従四位上左衛門督兼侍従とすることと一致する。実名が異なって伝えられているのに、官位が一致していることは注目できる。
 義郷の官職は、沙々貴神社本では右兵衛佐・左衛門督・侍従・右近衛少将・左近衛中将・近江守と伝え、『江源武鑑』では右兵衛督兼左衛門佐と伝えている。佐(次官)/督(長官)が逆になっているものの、どちらも義郷が右兵衛(唐名武衛)であり、左衛門(唐名金吾)であったと伝えている。これは義康が武衛侍従とも左衛門侍従とも称されたことと一致する。沙々貴神社本と『江源武鑑』の根本資料が、義郷のことを武衛侍従や左衛門侍従と伝えていたことが分かる。
 このように六角義郷の系譜伝承は、左衛門侍従義康の事跡にまさに一致する。しかも沙沙貴神社本と『江源武鑑』は義康という本名を伝えていない。それにもかかわらず左衛門侍従義康の事跡を正確に伝えている。このことは系譜伝承の情報源が『太閤記』ではなく、独自の資料だったことを物語っている。同名であれば、『太閤記』を情報源にして同名異人の事跡を混入したと意地悪く考えることもできる。しかし沙沙貴神社本も『江源武鑑』も始めから終わりまで義郷で通している。義康という名前はまったく出てこない。同名異人の事跡を混入したわけではない。名前が異なっていることで、かえって両者が同一人物であったことが確認できる。そして義郷の実在が分かる。
 沙々貴神社本と『江源武鑑』が、義康ではなく「義郷」としたのは、義秀没後の元亀三年(一五七二)に比叡山を再興した左兵衛佐氏郷(8)と混同したためと考えられる。沙沙貴神社本も『江源武鑑』も、義郷が慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦いの恩賞として給付された所領を、比叡山再興のために資したという伝承を伝えていることからも、義康と氏郷を混同していたことは確実である。しかも義康も氏郷も官職が兵衛佐であり、両者が混同される要素はある。
 このことを確認した上で、『江源武鑑』よりも後世の元禄以後に書かれた『六角佐々木氏系図略』を見ると、義郷の本名が義康であったことが伝えられ、官職も左衛門督であったことが伝えられている。系図伝承の義郷と豊臣義康は、やはり同一人物だろう。
 義康という実名を伝えなかったことを除けば、沙々貴神社本の情報は歴史的事実に合致している。佐々木氏/六角氏の氏神沙々貴神社に伝わる系図に相応しい系図といえよう。
 この行幸で公家成り大名たちは、@この聚楽第行幸で昇殿を許されたことを有り難く思うこと、A朝廷に疎意のないこと、B関白豊臣秀吉に違背のないことを誓約した起請文に署名している。その起請文の宛所は、秀吉の養子であった金吾侍従豊臣秀俊である。当時は、秀俊(のちの小早川秀秋)が秀吉の後継者と目されていたからである。実はこの連署人の中に御虎侍従の名がない。御虎侍従については幼名で呼ばれており若年だったと考えられる。『太閤記』では左衛門侍従義康の名も見えないが、『聚楽第行幸記』では連署人の一人に見える。
 ところで群書類従本『聚楽第行幸記』では御虎侍従に「義康」と注記されている。この注書に注目すれば、御虎侍従の実名が義康か/御虎侍従は義康の近親者のどちらかと考えられる。御虎侍従の実名が義康ならば、ふたりの豊臣義康がいたことになる。その可能性についても考えていく必要があるかもしれない。

【注】
(8)内閣文庫蔵『朽木家古文書』二三三号(氏郷書状)・六二八号(氏郷書状)・六二九号(蓮乗坊快秀書状)。

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