佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 武衛義康

<<   作成日時 : 2006/02/08 23:10   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 『天正記』では、聚楽第に供奉した公家成り大名の一人に武衛義康がいる。『聚楽第行幸記』や『太閤記』と比較することで、武衛義康が左衛門侍従義康と同一人物であることが確認できる。沙々貴神社本にあるように六角義郷の前官は右兵衛佐であり、武衛と呼ばれるに相応しい。
 六角氏では、元亀年間に比叡山再興に尽力した氏郷が左兵衛佐であったほか、義郷の高祖父六角高頼が右兵衛入道と称されていた(続群書類従本『御内書案』)。そのため十一代将軍足利義澄妻である高頼の娘は、武衛娘と呼ばれている。戦国期の公家権中納言鷲尾隆康の日記『二水記』で、阿波公方足利義親(義維)は「法住院殿御息武衛腹、江州武家御舎弟也」と記している。故前将軍義澄(法住院殿)の子息で、母は武衛娘であり、近江逃亡中の将軍義晴の弟に当たるという意味である。実は前将軍義澄の妹は、高頼の嫡子氏綱の妻である。武衛娘と結婚していた前将軍義澄と六角氏は重縁で結ばれていた。このように戦国期には六角氏が武衛と称されていた可能性が高い。さらに遡って南北朝期にも六角氏頼(近江守護)の子息義信(足利義詮養子、丹波・丹後守護)が右兵衛佐となっている。室町期でも、満綱(大膳大夫・弾正少弼)や持綱(兵部大輔)も元服直後は四郎右兵衛尉を通称としていた。
 上杉本洛中洛外図に武衛邸があるが、この屏風が描かれたと考えられる天文十六年(一五四七)頃(9)には斯波氏はすでに没落している。将軍邸(公方様)に六角氏の定紋四目結のある幕が張られており、さらに天文十五年(一五四六)将軍足利義輝(当時は義藤)の元服式では六角定頼(弾正少弼)が管領代を勤めていることに注目すれば、当時武衛邸に入っていたのは管領六角氏であろう。この洛中洛外図を上杉輝虎(謙信)に贈ったのも、上杉氏と交流があった六角氏と考えられる。永禄年間(一五五八−一五六九)に六角氏被官河田長親(豊前守)が上杉氏執政になっていたことでも交流の様子が分かる。
 義郷の官職は、武衛侍従とも/左衛門侍従とも呼ばれている豊臣義康の事跡と一致する。義郷は実在しないという先入観を捨てれば、六角義郷(初名義康)と武衛侍従義康/左衛門侍従義康はまちがいなく同一人物である。

【注】
(9)今谷明『京都・一五四七年』平凡社、一九八八年。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

武衛義康 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる