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zoom RSS 豊臣義康と津川義近

<<   作成日時 : 2006/02/08 23:09   >>

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 天正十八年(一五九〇)の小田原の陣には六角氏も参陣し、近江六角殿が秀吉陣中の茶会に出席している(『天王寺屋会記』宗凡他会記)。このとき六角殿に足利義昭側近の真木島昭光(玄蕃頭)が供奉していることから、この六角殿は足利義昭の備後下向に随行した義堯(六角殿)本人か/足利義昭の養子と伝わる義郷(義康)と考えられる。
 この小田原の陣では、義郷(義康)と同じく武衛と呼ばれうる津川義近(三松)が、東国大名との外交に奔走して伊達文書に多くの書状を残している。まず(天文十六年)九月八日付伊達政宗宛津川義近書状(10)で、津川義近は自ら「義近」と署名している。また天正十八年(一五九〇)の小田原の陣に係わる文書でも、「義近」(11)「三松」(12)と記している。義康と同一人物と見ることは難しい。しかも義近は天正十三年(一五八五)正月十日の津田宗及の茶会ですでに「ふゑい三松様」と入道名で呼ばれている(『天王寺屋会記』宗及他会記)。このあいだ「義康」と名乗り続けている左衛門侍従義康とは、明らかに別人であろう。
 義近と弟蜂屋謙入(大膳大夫)は小田原の陣の外交面で活躍したことで、自らの力を過信し、後北条氏政・氏直父子の助命を秀吉に嘆願した。この嘆願で、二人は秀吉の勘気を被って隠遁してしまった。
 しかし左衛門侍従義康はその後も活躍し続ける。文禄の役での秀吉自身の出陣に関する『鹿宛日録』文禄元年(一五九二)三月二十六日条で、「第一金吾殿、先駆山伏之体也、人々个々吹貝也。第二商山公、騎馬数人。第三黄 衆廿人。第四浅井少弼・武衛・医者衆・堺衆・近侍衆也。第五太閤公」と記されている。ここで「金吾殿」に注目しよう。『聚楽亭行幸記』で「金吾侍従」と呼ばれた豊臣秀俊(当時は丹波中納言)は、その翌年/文禄二年(一五九三)に宮部継潤とともに名護屋に着陣しているので、この金吾殿とは明らかに別人である。金吾は衛門の官の唐名であることから、この金吾殿は左衛門侍従義康と考えられる。
 ここで金吾殿と武衛が区別されていることも注目できよう。殿と敬称されている金吾殿は大名であり、武衛は大名ではない。また武衛が独自の軍勢を有していた様子もない。自らの軍勢を有していた左衛門侍従義康とは明らかに別人である。秀吉の出陣に同行していることを考えると、津川義近(三松)はこのときまでに赦免されていたのだろう。室町幕府と関係の深かった鹿苑院主が、斯波氏の子孫義近を武衛と呼んだことは十分に理解できる。そしてその『鹿苑日録』記主は、左衛門侍従義康と義近を明らかに区別している。
 しかし津川義近の名誉回復は、こののちも果たされなかった。文禄二年閏九月に弟蜂屋謙入が没したときも跡目は立てられなかった。同じく閏九月十七日に弟毛利秀頼(河内侍従)が没しても、遺領信濃飯田一〇万石のうち実子秀政(河内守)が継いだのは一万石のみで、九万石は秀頼の娘婿京極高知(修理大夫)が継いだ(13)。秀吉の愛妾京極殿(松の丸殿)の実弟高知に遺領のほとんどが渡されたことは、義近が嫌われていたことをよく示している。
 文禄三年(一五九四)六月二十八日秀吉の異形の姿での遊興で、義近(三松)は御咄衆に列している。勘当は解けていたが、もはや実力はなかった。この記事では、義近(三松)のことを「或曰、三松は尾州武衛家より、津川玄蕃允の舎兄にておわせしなり」と説明している。津川玄蕃允は織田信雄(信長次男)の家老で伊勢松島城主であったが、天正十二年(一五八四)三月秀吉に通じたとして、同じく家老であった岡田長門守・浅井田宮丸らとともに信雄に謀殺されている。こうして秀吉と絶った信雄は徳川家康と盟約を結び、翌四月の小牧・長久手の戦いに突入した。義近はその玄蕃允の舎兄と説明されている。『太閤記』は、左衛門侍従義康と義近を別人としている。左衛門侍従義康は、『駒井日記』文禄三年(一五九四)二月二十日条に見えるように、当時秀次の与力大名左衛門督殿として活動している。
 このように武衛をすべて斯波氏と考える必要はない。概念がいちどうまく対象に当てはまると、別のものにも同じ概念を当ててしまう。人間は新しいものに出会っても、まず既存の概念を当てはめる。本来は異なるものにまで、適用範囲を越えて使用する。同一律の恐さがここにある。
 武衛はあるときは六角義郷(左衛門侍従義康)であり、またあるときは津川義近であった。すべての武衛を津川義近と考える必要はない。文脈の中で考えるべきである。

【注】
(10)『大日本古文書』伊達家文書三八五号。
(11)(天文十七年)正月二十日付伊達政宗宛津川義近書状(『大日本古文書』伊達家文書四〇四号)。
(12)(天文十七年)正月二十日付伊達政宗宛津川三松書状(『大日本古文書』伊達家文書四五九号)。
(13)『駒井日記』文禄二年閏九月二十三日条。

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