佐々貴少将宛徳川家康書状

 文禄四年(一五九五)関白豊臣秀次の謀反事件直後の諸大名血判状(木下文書) に、左衛門侍従義康の署名血判がない。同連判状に署名血判している安房侍従義康は、小田原の陣以後に豊臣氏に臣従した安房の大名里見義康のことである。もちろん江州八幡侍従・左京大夫父子も見られない。沙々貴神社本や『江源武鑑』によれば、六角義郷(義康)は秀次に連座して没落したと記されている。この連判状は秀次謀反事件に関わるものであり、秀次に連座して失脚していれば、署名・血判がないのは当然である。ここでも六角義郷(義康)と左衛門侍従義康の事跡は一致するが、津川義近(三松)にはここで名が見えなくなる理由がない。やはり六角義郷(義康)が左衛門侍従義康であろう。
 慶長五年(一六〇〇)関が原の戦いでは、義康は石田三成の誘いを断り西軍に属さなかったことを家康から賞されたという(16)。しかし義康は戦功がないとして取立てを丁重に断り、その領地を比叡山の再興に資してほしいと願い出たという(『江源武鑑』『関原軍記大成』『難波戦記』『石田軍記』など)。義康が比叡山を再興に資したのであれば、元亀三年(一五七二)に比叡山を蒲生郡中荘山に再興した六角義郷(『朽木文書』では氏郷)の事績と混同される素地がある。『江源武鑑』や沙沙貴神社本が、義康の実名を「義郷」とするのは、このためだろう。

【注】
(16)『佐々木京極氏古文書』九月廿八日付佐々貴少将宛徳川家康書状。

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