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<<   作成日時 : 2006/02/08 23:04   >>

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 その後の義康の行動を知る手がかりが、『鹿苑日録』に記されている。『鹿苑日録』慶長十一年(一六〇六)正月二十九日条に登場する「カウケ中将殿」が、義康の後身と考えられる。
 この「カウケ中将殿」の「カウケ」は、近江家(あるいは江州家)を意味する江家と考えられる。(元亀元年)六月十九日付近江修理大夫宛織田信長書状写(17)でも、六角氏を指して「江家」という表現がされているように、六角氏が「江家」と呼ばれることがあった。また沙々貴神社本佐々木系図で、義康(同系図では義郷)の官職の一つに近衛中将を挙げている。カウケ中将は義康と考えられる。
 この『鹿苑日録』の記事は、中将や鹿苑院主らが豊臣秀頼に歳首を賀したというものだが、このとき中将は六角承禎の次男高盛(高定、佐々木中務殿)と初対面だった。そのため中将から声をかけて、中将と高盛は今後の入魂を誓い杯を酌み交わしている。実は、この記事はまさに高盛が『鹿苑日録』に初めて登場した記事である。以後高盛の記事が頻出する。
 また『鹿苑日録』慶長十一年(一六〇六)四月二十六日条に中豊後守と河毛中将が鹿苑院を訪れている記事がある。河毛氏は北近江守護京極氏旧臣であり、秀吉の馬廻衆にも河毛次郎左衛門尉や河毛源三郎・河毛勝次郎がいる(『太閤記』名護屋御留守在陣衆)。そして慶長年間には六角氏の周辺に河毛氏が現われる。『鹿苑日録』慶長十二年(一六〇七)十月および十一月の条に佐々木高盛の周辺に河毛左京が登場する。彼は前述の一休寺所蔵六角氏位牌にある一人、寛永二十年(一六四三)二月二十二日に没した香徳院殿前左京兆葦林栄大禅定門と同一人物と考えられる。また『鹿苑日録』慶長十七年(一六一二)十二月四日条に六角義治の養子定治(佐々木兵庫)の従臣として河毛が登場する。ただし河毛中将は近衛中将(従四位下相当)という公家成りの官職を帯びており、六角氏従臣ではない。一族であろう。しかも官職は高盛の中務大輔(正五位上相当)や定治の兵庫頭(従五位上相当)よりも高い。中将が六角氏家督であることは間違いない。高盛と対面した前述のカウケ中将と同一人物と考えられる。また中豊後守は、比叡山を再興した中左兵衛佐氏郷の子孫だろうか。
 さらに『鹿苑日録』慶長十二年(一六〇七)十月七日条には前述の中豊後守とともに近江守が登場する。沙々貴神社本によれば、義康(同系図では義郷)は近衛中将補任後に近江守を受領している。そうであれば前述のカウケ中将と近江守は同一人物と考えられる。

【注】
(17)『士林証文』三。『織田信長文書の研究』二三八号。

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