『江源武鑑』刊行

 沙沙貴神社所蔵佐々木氏系図や明暦二年(一六五六)版『江源武鑑』、さらに『六角佐々木氏系図略』によれば義康(伝承では義郷)が没したのは元和九年(一六二三)である。そして『江源武鑑』の初版は元和七年(一六二一)である。このとき義康はまだ生存していた。信長の弟織田有楽斎(長益)もこの年に没しており、関係者の多くはまだ生存していた。六角承禎の次男佐々木高盛(高定)が没したのも、まだ前年の元和六年(一六二〇)である。まったくの虚偽が書けるような時期ではない。しかも『江源武鑑』はその後も版を重ねており、当時大きな批判が出なかったことも注目できる。『江源武鑑』をまったくの偽書として排除するのは難しい。
 『江源武鑑』に対する批判は、関係者がまったく生存していない江戸時代中頃に和算学者建部賢明によって始められている。たしかに江戸時代の学問は儒学の伝統の中で実証主義を重んじた。しかし実証主義はその基本的な考え方は正しいが、確実性に急ぐあまり、自分の意図に反する不確実なものを虚偽として排除しがちである。しかし確実な資料も読み方によって解釈は変わる。そのことは、武衛義康や左衛門侍従義康が一通りに解釈できなかったことでも分かる。それとは反対に、口頭伝承や系譜伝承であっても、隠喩に隠されている事実を丁寧に読み解けば資料になる。そのような曖昧なものに含まれている事実を排除した歴史像が実像ではなく、小さく歪曲された虚像にすぎないのは当然だろう。
 『江源武鑑』は一次資料ではなく物語だが、成立時期を考慮すれば史実と無関係なものと見なすことはできない。たしかに記述は曖昧なものだが、資料と付き合わせて慎重に扱えば多くの史実を比喩的な記述の中から引き出すことができる。『江源武鑑』で義郷と記されている人物は、武衛義康であり、左衛門侍従義康である。

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