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zoom RSS 天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』

<<   作成日時 : 2006/02/07 23:44   >>

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 『夢窓国師俗譜』は、六角氏郷によって書かれたものであるが、その奥書は相国寺百代住持汝舟妙恕によって書かれているので、ここに紹介しよう。
 寛文三年(一六六三)九月晦日に「佐々貴管領氏郷朝臣」がたまたま相国寺を訪れ、愚渓等厚禅師(同寺九九代住持)と対談した。そのとき禅師が、当山の開山である夢窓国師は、公(氏郷)の先祖宇多天皇の九代の後胤であり、国師の父が長谷観音に祈り生まれたことを話した。それに対して、氏郷は次のように答えている。わが家の九代は、ちょうど保元・平治の乱の頃(一一五六−六〇)に当たる。しかし足利尊氏の帰依を受けた夢窓国師は建治二年(一二七六)十一月朔日に生まれて、観応二年(一三五一)九月晦日に化している。わが家の中興の祖で、夢窓国師とほぼ同世代の六角氏頼(一三二六−一三七〇)は宇多天皇十八代の嫡孫であり、建治年間は保元・平治年間とはおよそ二百年の開きがある。これらのことから、夢窓国師を宇多天皇九代の後胤とするのは誤りであると述べている。しかし禅師は、このことを記しているのは後小松天皇の宸翰であり、誤りであるはずがないと反論している。氏郷はさらに答えて、宸翰であろうと誤りはあるものだと述べている。禅師はなおも納得しなかったが、諸老はこれを聞き、氏郷の言っている事が尤もであるとし、年代を改めるべきであろうとした。禅師もそれら諸言を聞いてやっと納得することができ、氏郷に謝礼を述べている。その日の夜、氏郷が寝ていると夢に紫衣老僧が忽然と現われ、降誕の年代の誤りを正してくれた事に礼を述べたという。目を覚ますとすでに夜は白んでいた。氏郷はその旨を愚渓禅師に話すと、その日はまさに夢窓国師の忌辰であり、深く感嘆したという。妙恕も感慨に堪えがたく禿毫を染めた。最後に「万年山相国寺光源院主妙恕志之」とある。このことで氏郷が相国寺の住持らと交遊があったことが分かる。
 実は夢窓疎石は鎌倉御家人佐々木朝綱(左衛門尉)の嫡子で、母は北条政村の娘であり、佐々木氏惣領の六角氏頼とは再従兄弟に当たる。たしかに氏郷が正しい。
 天皇の真筆宸翰であろうと誤りはあるものだと主張している氏郷の態度は、まさに歴史学者に相応しいものである。権威があるから正しいという意見は、実証を重んじる歴史学者にはあってはならない。どのような学説も仮説と見なし、過去の痕跡である資料に照らして歴史像を再構築していくのが歴史研究の意味である。
 また同系譜の奥書で氏郷を「佐々貴管領氏郷朝臣」と呼んでいるが、実名の下に氏姓制度の姓「朝臣」を記すのは四位の者に対する敬称であり、氏郷が四位であったろうことが推測できる。滋賀県・沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、氏郷は院昇殿を許されており、その官位も従四位下中務大輔・左衛門督であったという。この記述が正しければ氏郷は院参の殿上人であった可能性がある。たしかに『夢窓疎石俗譜』奥書と一致する。すくなくとも相国寺住持はそのように認識していたということである。

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