六角氏郷と庭田重条

 佐々木氏と同じく宇多源氏雅信流の公家庭田重条(右中将雅純次男)が、万治三年(一六六〇)に六角氏を称して従五位下大膳権大夫に叙任され(十一歳)、伏見宮家殿上人になっている。ところが、重条の兄で庭田家を継いでいた侍従雅秀は病気がちであった。重条は寛文五年(一六六五)に庭田家に帰家し、その二年後の寛文七年(一六六七)に兄雅秀が二十歳で没した。庭田家を継いだ重条は、のちに従一位権大納言に至り、武家伝奏も勤めた。
 実は庭田家からは葛岡・大原・見雲(三雲)、勧修寺流藤原氏の万里小路家からは高島など佐々木一流の家名が江戸初期に復興されている。六角家もそのひとつと考えられる。重条が始め六角氏を称したのは、氏郷の名跡を継承してのことだろう。
 『夢窓国師俗譜』の奥書で、氏郷は「佐々貴管領氏郷朝臣」と呼ばれていることから、四位であったろうことが推測できる。しかも滋賀県・沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、氏郷は院昇殿を許され、従四位下中務大輔・左衛門督であったと伝えられている。氏郷が相国寺を訪れたのは、寛文三年(一六六三)九月晦日であり、まさに重条が六角氏を称していた時期である。
 しかし重条が寛文五年(一六六五)に庭田家に帰家したため、氏郷には後継者がいなくなった。ここから『京極氏家臣某覚書抜萃』の内容が始まる。

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