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zoom RSS 六角氏再興運動

<<   作成日時 : 2006/02/07 23:39   >>

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 沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、沢田郷重という人物が万治三年(一六六〇)に没している。同系図によれば郷重の弟重秀の母は和田氏であり、源内の母が和田氏であったとする『大系図評判遮中抄』の記述と一致する。源内と同一人物と見て間違いあるまい。源内が水戸家に仕官活動したのが承応二年(一六五三)頃であるから、彼はその八年後に没していることになる。元禄六年(一六九三)に七十三歳で没した氏郷とは、明らかに別人である。
 また『大系図評判遮中抄』では源内の父と弟が老中阿部豊後守忠秋に仕えたとしているが、実は忠秋は新田岩松氏の家名復興運動を支援している(4)。
 戦国期に上野新田金山城主として近隣に勢力をもっていた由良氏は、江戸期に旗本になり、さらに寛文元年(一六六一)火災で焼失した内裏の造営奉行として功績があり、女院東福門院徳川和子の推挙によって同五年(一六六五)に高家衆に列した。その根拠は、新田氏の末流に属することを示す由良氏所蔵の系図と、新田義重(新田氏初代)を新田荘下司職に補任する左衛門督家政所下文を所持していたからである。高家衆とは名門武家の子孫が列したもので、石高は一万石未満で旗本であったが、格式は高く大大名と同じく四位侍従・少将に任じた。その役割は京都朝廷への使者、伊勢・日光への社参のほか、江戸殿中における勅使の応接・接待に当たる大名の後見などである(5)。
 由良氏が新田の子孫であると称して高家衆に列した事実を知って、新田岩松氏の子孫秀純が怒った。岩松氏は由良氏の主筋に当たり、新田惣領家が南北朝期に滅亡してからは、新田一族の惣領職を獲得して新田荘を支配してきた。徳川家康の関東入部以来、再三あった仕官の機会を逸して、寛文三年(一六六三)になってようやくと秀純が新田郡に一二〇石の知行地を給付されて御家人に列したばかりであった。岩松氏にとって、家臣筋の由良氏が新田氏嫡流を称して高家衆に加えられたことは耐えがたい屈辱であった。秀純は上訴しようとしたが、庇護者の阿部忠秋に抑止されている。承応二年(一六五三)沢田源内が水戸家に仕官できず、失意のうちに万治三年(一六六〇)に没したことが、忠秋の脳裏をよぎったのではないだろうか。源内の没後わずか五年後の出来事であった。秀純の憤りは、彼を家系を明らかにしてそれを子孫に残すという歴史研究に向かわせた。秀純は延宝四年(一六七六)に没したが、その事業は子孫に継承されて念願は成就している。
 『京極氏家臣某覚書抜萃』に引用されている京極高豊宛の氏郷書状で使用された氏郷印には「江源明流」とあり、彼の活動が近江源氏佐々木氏の嫡流六角氏の再興にあったことは明らかである。沢田源内、さらに氏郷らによってなされた著作活動は、実は六角氏再興運動だったと評価できよう。
 こののち氏郷の子孫六角敦周は明和五年(一七六八)に四十一歳で朝廷から滝口に補任され、のちに佐渡守に至っている(『地下家伝』)。この滝口の六角家は幕末まで続いている。滝口といえば天皇の警固をする職であり、『大系図評判遮中抄』でいうような「種姓モ知サル凡下ノ土民」の子孫では補任される職ではない。織田氏の子孫津田氏や、豊臣姓木下氏などの名門の子孫も列している。また敦周の孫敦義は『御遷幸供奉色目抄』を著している学者でもあった(6)。
 これらのことを考え合わせると、義実・義秀・義郷を切り捨てた従来の説は、後世に書かれた『大系図評判遮中抄』を参照し、そして義実・義秀・義郷の三代の実名が一次資料に見られないことを根拠としている。しかし義実の実名は、『鹿苑日録』によって「義久」であったことが確認できる。六角氏重臣には進藤山城守(久治)や山中大和守(久俊)など実名に「久」の字を使用する者が多いことも、そのことを裏付けている。六角氏に従属していた浅井久政の名乗りも、義久の諱字を給付されたものであろう。義実・義秀・義郷らの実名を資料に探しても、実名が異なっていては見つからないのは当然であり、『近江蒲生郡志』など従来の説は根拠を失ったことになる。

【注】
(4)峰岸純夫「長楽寺文書と正木文書」(『中世の東国−地域と権力』東京大学出版会、一九八九年)。
(5)新見吉治『旗本』二版、日本歴史叢書一六、吉川弘文館、一九七三年。
(6)『国書総目録』。

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
佐々木様に教えていただきたいのですが、この記事中の六角敦周についてです。
「地下家伝」には確かに瀧口六角氏が記載されていますが、18世紀の敦周からの記載でそれ以前については記載されておりません。
この敦周が氏郷の子孫であると云う事についてなにか根拠とされるものがあるのでしょうか?
Hiko
URL
2009/03/13 22:09
滝口六角家は現在、京都宇治市に在住されており、系図も伝えられています。その系図で、江戸前期の系図(滋賀県勝楽寺所蔵佐々木系図)に記された氏郷の孫敦高と、滝口六角家の初代敦周が父子であることが判明しています。

ただし滝口六角家は、氏郷の直系ではありません。院参の殿上人氏郷(四位)の血筋はいちど断絶し、敦周が滝口(六位相当)に補任されたときに再興したものです。傍流の佐左馬義政(仁木殿)の子孫が氏郷流の養子になったようです。

※ブログの記事は下書きですから、詳しくは拙著を参考にしてください。
佐々木哲
2009/03/13 23:20
早速レス頂有難う御座います。
その瀧口六角家伝来の系図・文書の内容や成立時期次第でしょうけど、佐々木様の主張を裏付ける証拠になりますよね。(実見されたのでしょうか)
これからもHPの更新に期待しています。
Hiko
2009/03/14 20:58
わたしはあくまで当時の資料に基づいて研究していますので、滝口六角家の存在は私の研究ではエピソードのひとつです。

六角氏の子孫では、庭田重条がはじめ伏見院殿上人として六角家を名乗ったことも注目できるとともに、義郷の弟秀綱(泰雲院殿、左京大夫)の子孫にも興味があります。宇治一休寺に位牌がのこっており、官位も左京大夫・伊賀守で、殿上人・諸大夫のものです。ただし江戸中期に断絶しています。そこに滝口六角家が出てきたのです。
佐々木哲
2009/03/16 22:33

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