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zoom RSS 1996年東大前期・国語第五問「身体論・人間の記憶」

<<   作成日時 : 2006/01/03 00:32   >>

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三善晃「指の骨に宿る人間の記憶」より出典
【問題文】
 谷川俊太郎さんの詩《ポール・クレーの絵による「絵本」のために》のなかの一編〈死と炎〉は、「かわりにしんでくれるひとがいないので わたしはじぶんねしなねばならない」で始まる。それで、「わたしはわたしのほねになる」。そのとき私の骨は、この世のなにものも携えてゆくことができない。「せめてすきなうただけは きこえていてはくれないだろうか わたしのほねのみみに」
 この十年ほど、時々右腕が使えなくなる。細かい五線紙に音譜を書き揃える仕事のためか、頚椎が変形か磨耗かして、痺れと痛みが何ヵ月か続く。その間、右手はピアノも弾けない。鍵盤のうえに指を置いて触れるだけだ。
 しかし、そうすると、ピアノの音が指の骨を伝って聴こえてくる。もちろん、物理的な音が出るわけではない。だが、それはまぎれもなくピアノの音、というよりもピアノの声であり、私の百兆の細胞は、指先を通してピアノの歌に共振する。こうして、例えばバッハを弾く=Bすると、子どものとき習い覚えたバッハの曲は、誰が弾くのでもない、大気がずっと歌い続けてきている韻律のように聴こえて≠ュる。
 骨の記憶のようなものなのだろう。それは日常の意識や欲求とは違って、むしろ私とはかかわりなく自立的に作動するイメージである。多分、子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが、鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起するということなのだろう。だが、そうして私に響いてくる韻律は、私の指の運動を超えている。それは私の指が弾くバッハではなく、また、かつて聞いた誰かの演奏というものでもない。バッハの曲ではあるが、そのバッハも韻律の中に溶解してしまっている。
 日常の時空を読み取る五感と意識の領域でなら、私は絶えず「自分」と出会っている。改めて振り返るまでもない日常の小さな起伏と循環……そこに出会い続ける「自分」は、丸山圭三郎さんの言われた「言分け」(言葉で理解する)と「身分け」(身体で理解する)を借りて言えば、最終的にはいつも「見分け」る自分だった。
 私は、私が他者のなかに生き、私の言葉が他者のためにしかなく、私の仕草が他者にしか見えないことを「身分け」ている。蝙蝠が自ら発する音波の反響で自分の位置を知るように、私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて、絶えず自分を見続けていることも、私は「身分け」ている。そのような生き方をどのように「言分け」ても、その「言分け」は、「身分け」られる生き方超えることはできない。例えば、どんなに死を「言分け」ても、それは私自身の生の「身分け」を超えることができない。それでもなお私は、その「身分け」を「言分け」し続けなければならない。
 だから私は、自分との出会いのなかに、自分を見失い続けてきた。しかし、「わたしのほね」になるほかない私の指が、私の内部で私にだけ響かせるものは、他者を介在させることなく私を凝視める「自分という他者」の声なのだ。
 私のなかに、「分け」ようとする私と絶縁した私がいる。それは私の指の骨にも宿っている〈人間の記憶〉でもあるだろうか。
 私が音を書こうとするのは、その人間の記憶のためであり、また、その記憶に操られてのことなのかもしれない。それならば、いつか私が「わたしのほね」になるときに、私は「自分という他者」として自分と出会い、人間の記憶に還ることができもしようか。

【設問】
(一)「私とはかかわりなく自立的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは、どういうことか、説明せよ。
(二)「自分との出会いのなかに、自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが、なぜか、説明せよ。
(三)「私の骨にも宿っている〈人間の記憶〉」(傍線部ウ)とは、どういうことか、説明せよ。

【解答例】
(一)自我が死ぬことで感じることのできる感覚は、わたしの身体が受け継いできた人間全体の記憶であるということ。
(二)わたしたちは本当の自分を知るためにも、言葉を超えたものを言葉で説明する必要があるが、それはいつも言葉をすりぬけてしまうから。
(三)ひとは死ぬことで人間の記憶という大きな流れに還るが、その人間の記憶は実はわたしの身体にも宿っているということ。

【解答のコツ】
 この文章を、散文詩として読むと味わい深い。ただし解答を書こうとすると、なかなか言葉にならない。これが、この問題の狙いである。東大国語・現代文は、自分の言葉に置き換えて説明のできる学生がほしいのである。自分の言葉に置き換えられるということは、きちんと理解しているということだからだ。
 前半で、十年ほど前からときどき使えなくなった右手の「指の骨」から、ピアノの音が伝わって聞こえてくる述べているが、それはそのピアノの音が意識を超えたものであることを表している。意識を超えたもの自我を超えたものであるから、第一段落で谷川俊太郎の詩の一編「死と炎」を引用して、「死」のイメージを高めていたのである。そのピアノの音は「大気がずっと歌い続けてきている韻律」であり、意識的には聴こえてこないが、無意識的には聴こえてくる(傍線部ア)。
 筆者は音楽家であるため、自分の体験のなかで「ピアノの音」と表現しているが、それを一般論に高めた後半では「人間の記憶」と言い換えている。自我を超えた「人間の記憶」は言葉で表そうとしても表すことができないが(傍線部イ)、実は指先に宿っている(傍線部ウ)。この全体の内容を把握した上で、しっかりと自分の言葉で表せるかという問題である。
(一)傍線部アは、当段落の最初の文のなかにあり、前段落の筆者の体験を受けながら、当段落のテーマを述べた記述であることが分かる。前段落の内容をまとめても、当段落の内容をまとめてもいいが、前段落を使うと、筆者の体験に引きずられて、音楽の話に限定されてしまう。青本の模範解答は、見事に引っかかっている。やはり、一般論に高められている当段落を使用した方がいい。実は傍線部アは、前半の筆者の体験を受けて、文章全体のテーマを述べている個所なので、文章全体をまとめれば傍線部アの説明になる。このことに気づけば、簡単に自分の言葉に直せるはずだ。
(二)傍線部イは、「だから私は」に続く文章であり、前段落の内容を受けていることは確実である。前段落の後半で述べられている内容をまとめればいい。それは、どんなに言葉で表そうとしても表すことができないが、それでも言葉で表し続かなければならない、という内容である。あとは、傍線部イに即して、言葉で表せないということに重点を置けばいい。
(三)傍線部ウの直前に「それは」があるため、直前の文「私のなかに、『分け』ようとする私と絶縁した私がいる」を受けていることが分かる。それは、まさに言葉で表せないものである。それが、「私の指の骨にも宿っている」のである。

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