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zoom RSS 1997年東大前期・国語第二問「見る」

<<   作成日時 : 2005/12/06 15:55   >>

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多田智満子『鏡のテオーリア』より出典。
【問題文】
 見るためには対象と自分との間に距離をおかなければならない。これは明白な事実である。
 しかし、見るという行為が、対象との間の物理的距離を心理的にゼロにする場合がある。他者のまなざしが私に向けられ、そのまなざしが私をとらえたときがそれだ。
 私が或る人の眼を美しいと思ったり、眼の表情に注意したりすることができるのは、その人が私にまなざしを向けているまさにそのときではない。私が彼にまなざしを向け、彼が私にまなざしを向けていないとき、私は距離をおいて彼の眼を知覚することができる。ところが彼が私にまなざしを向けた刹那に、彼のまなざしは彼の眼をおおいかくしてしまう。彼の眼と私の目との間の距離が消え失せ、文字通り二つの眼がかち合うのだ。その刹那には私は彼の眼を知覚することができない。ただまざまざとまなざしを意識するばかりである。この瞬間、他者は私にとって、ことばのラディカルな意味において、現前するのであり、サルトルの表現を借りるならば、そのとき私は「他者と一対になった存在」となる。サルトルはこれを、「いわば双生児的出現」と呼んでいる。
 見られているということは「まなざしを向けられている」ということだ。誰かにまなざしを向けられているということは、とりもなおさず、私が何かしら彼の価値評価の対象になっているということだ。そのときの私の反応は、まず羞恥心か自負であろうが、他者のまなざしは即座に私の内部に組み込まれ、私が私自身に向けるまなざしと同化するかあるいは少なくとも共存する。手っ取り早く言えば、見られていると意識すると同時に私は否応なしに自分を見てしまう。他者は私を映す鏡として現前するのである
 私を見ている他者の価値評価を受け入れるにせよ否定するにせよ、ひたとまなざしを向けられた刹那には、私はまったく無防備で傷つきやすい存在でしかありえない。私は自分が現にそれを生きつつあるところの、流動的な内受容性の現場をとりおさえられ、一瞬周章狼狽し、あるいは少なくともたじろがざるをえない。相手のまなざしに当てるために、私の流動的な存在の表面には大急ぎで透明なかさぶたのようなものができあがる。私が彼の評価を評価できるようになるのは、そのかさぶたが張った後でである。そして相手の評価を評価するためには、彼のまなざしが私のかさぶたの密度に応じた屈折率で私の内部に侵入し、私が私自身に向けるまなざしと共存しなくてはならない。そのときはじめて、私は「他者にとって見える私」と「私にとって見える私」との相違もしくは合致を認めることができる。

【設問】
 次の文章を読んで、傍線部ア・イ・ウのいずれかを選び、それについての解釈、意見を、160字以上200字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に、選んだ傍線部の記号を記入せよ。
 注意1 この文章全体についての理解にもとづいて記述すること。
     単なる個人的な体験の記述を求めているのではない。
 注意2 採点に際しては、表記についても考慮する。

【解答例】
(ア)相手のことを客観的に見ることができるのは、相手との間に距離があるときであり、自分が見る主体になっているからだ。ところが相手のまなざしが自分に向けられた途端、私は相手のことを客観的に見ることができなくなるばかりか、自分が見られる対象になる。このとき、自分は世界の中心にいるのではなく、世界の中に存在する者のひとりだと気づく。これが、他者を意識する瞬間なのだろう。
(イ)誰かが私を見ているということは、私が相手の評価対象になっているということだ。そのとき私は見られていると意識するとともに、自分がどのように見られているのかが気になる。相手に見られることで、私ははじめて自分が何者であるのかを意識するのである。このように、私は他者が存在することで始めて、自分を意識することができる。自分探しという言葉をよく聞くが、実は相手との関係の中でつくられ見つけられるものである。
(ウ)相手から一方的に見られることは、私が相手の評価対象になっていることであり、私が支配する者ではなく、支配される者になっているということである。しかし、そのような従属的な立場から私を解放することができる。見られることを意識し余裕をもつことで、私は相手の視線を客観的に観察できるようになり、相手が見ている私と、私が思っている私の差に気づく。このことで、私はアイデンティティを獲得できるようになる。

【解答のコツ】
(ア)傍線部アは直前の文から「ところが」という逆接の接続詞でつながっていることから、第一段落から逆接の接続詞「しかし」で続く第二段落と対応していることは明白だ。第一段落から第三段落までがひとまとまりとなっているのである。だから傍線部アの内容を理解するには、傍線部アのある第三段落だけではなく、第一段落から第三段落までの内容を踏まえるといい。その内容は、一般に見るという行為が、対象との距離をおいて客観的に見るということであり、自分が主体となっている。しかし相手に見られるということは、自分が相手の対象になるということであり、自分が従属する立場になるということだ。
(イ)傍線部イは段落最後の文であり、当段落の内容をまとめた文である。自分が相手の評価対象になることで、はじめて自分のことが気になるという内容である。「他者は私を映す鏡」を「他人の振り見て我が振り直せ」という意味ではないということに気づかなければならない。
(ウ)傍線部ウは最後の段落の半ばにあり、この段落の内容をまとめれば、傍線部イの内容は分かる。傍線部ウの文中の「かさぶたの密度に応じた屈折率」をどのように言い換えるかが勝負である。「透明なかさぶた」はレンズをイメージしているが、そのレンズによって相手の視線を屈折させることで、相手の視線を客観的に見ることができるようになる。そのことで相手の自分に対する評価を、逆に評価できるようになるということだ。

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