佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 1996年東大前期・国語第二問「教育論」

<<   作成日時 : 2005/12/31 15:02   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

中原俊『子どもの謎−神様が降りてくるまで』より出典。
【問題】
 次の文章は、ある映画監督が書いた文章である。これを読み、傍線部ア・イ・ウのいずれかを選び、それを手掛かりとして、感じたこと、考えたことを、160字以上200字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に、手掛かりとして選んだ傍線部の記号を記入せよ。
 注意 採点に際しては、表記についても考慮する。
【問題文】
 どうして子どもの頃の映画のなんか作りたいと思ったのだろうか? やっぱり年のせいかな、40越えた頃からだもんな……。折り返し点を過ぎると、人間、ノスタルジーに走るのかな。それとも自分の子どもが引き金かな。
 「子を持って初めてわかる親の愛」なんていうけど、俺あんまり子どもに愛情注いでないから、親の愛いまだによくわかんないし、かえって親ってつくづく自分勝手だと思う。自分が遊びたいときはあの手この手で連れ出すくせに、ちょっとうるさいと「あっち行けー」だもんね。でも、確かに少年らしくなってきた息子が目の前チョロチョロしていると、俺がこいつの頃、いったい何考えていたんだろう、と思うことはあるから、要因の一つではあるんだろうけど。
 自分の子どもの頃をつらつら思い出してみると……。これがすごーく退屈だった。漫画があった、テレビも始まった。野球もメンコもしたし、友達と遊ぶのはまあ、楽しかったんだけど、学校はほんとにつまんなかった。
 あの授業時間の長さ、内容のおもしろくないこと! なんでこんなことしなきゃいけないんだろうと思ってた。今はなんでだか知っている。あれは、わざとそうしていたに違いない。つまんない時間を逃げ出したりしないで、じっとがまんして耐えることこそ、授業の大事な狙いだったのだ。大人の世界はつまらないからこそそれに耐えられる能力のある人間を選別していく方法であり、選別された人間は、役所や会社を基盤とした社会に適し、国の経済を支える、まさしくこれから始まる日本の(それは今の日本だけど)求める大人だったわけ。子どもの時間は、そういう大人になるための訓練期間だったのだ
 僕らの時代はそれでよかった。ルール違反じゃなかった。あんまり大して意味のない問題でも、解ければ合格、進学できたし、いい大学に入るといい就職ができ、そうなることが大方の日本人の希望だったのだから。
 でも、これからはそのことに全然意味がなくなっていく。選別された人間を受け入れる会社がなくなっていくんだから、システムだけが残っててもしょうがない。
 じゃ、いったいどうすりゃいいんだ! というと、僕らが子どもの頃に持っていた不満、こんなことを覚えてどうするの、っていうことを、いったん全部やめてみるっていうのがいいんじゃないないだろうか。
 三角関数だってログだって習ったけど、一度たりとも使ったことなんてないわけで、ま、算数なんかはルールを使っていろんな計算の方法を覚えていく知識遊びみたいなものだから、好きな子はいいけど、嫌いな子にとっては耐え難かったと思う。
 ほんとにいちばん大事なのは、ものを知るときにどういう方法で知るか。たとえば図書館を使って、とか、辞書や事典を使って物事を自分で調べて知っていく方法なんか、もっとちゃんと教えたっていいと思うし、あるいは、ものの名前とか仕組みみたいな、具体的な実学の知識なんかをこれから教えるようにしたほうがいいと思うけどなあ。
 草木の名前とか、魚屋さんで売っている魚の名前なんか、今こそまさしく学校で教えなきゃ、誰も教えてくれない、お父さんとお母さんが知らないわけだから。純粋な意味で自然を大切にする子どもが育つ可能性のある最後の機会は今しかない。
 面白くてためになるのが学校なんだから、生きていくうえで実際的に必要なこと、仲間とのつきあい方、子どもの世界の中でのリーダーシップのとり方とか、子どもたちだけで、あるいはひとりでも生きていける方法を教えるほうがいい。
 小刀の名人に、学校で小刀の使い方を習う。家庭じゃ鉛筆削り使ってもいいが、学校でちゃんと習ってるから小刀扱えるんだ、というほうがいいんじゃないないかな。
 これからは、人間が作ったものや、もともと地球が持ってたものを、どう活用して生きていくかを教えるために、学校という組織は存在することになる。僕ら世代が変革するときが来たんだけど、それは子どもたちのためにではなく、僕ら自身のためにするべきだという気がする。
 我々の世代とあわせるかのように成長肥大してきた戦後日本社会は、考える余裕を奪うように、次々に新しい刺激を生み続け、時を加速し続け、そして今、泡のように崩壊した。考えてみればこれは幸運なことかもしれない。円高や株価の下落に頭を悩ませるより、いったいこの50年、何が欲しくって、何を夢みて生きてきたのかを思い起こすときが来たのだ。
 この50年間に生まれた自己矛盾を解決したい我々自身のために、子どものことを考えるのであって、子どものためを思って子どものことを考えるのは余計なお世話。子どもはどんなところだって順応していくものだからね

【解説】
 筆者は、戦後高度経済成長のモレーツ時代の教育を批判している。自分の受けた教育を、詰め込み教育だと言って批判しているのだ。たしかに学校の勉強は面白くない。一見何の役にも立たないように思える。これが常識的な教育論だろう。しかし、評論文の基本は常識を疑うだ。常識的な大人の教育論に惑わされるのはやめよう。まずは筆者の意見に賛成しながら読む。そうでなければ、筆者の意見を勘違いしたうえで批判してしまうからだ。しかし筆者が縛られている常識に気づいたら、その常識をとことん疑うことだ。
 筆者が述べている環境問題や社会問題を解決していくには、実は基礎力が必要だ。基礎力がなければ、応用力はつかない。自分の将来に直接関係のないものでも、他の子どもには役立っている。子どもの将来が幅広い可能性があると信じれば信じるほど、それだけ幅広い勉強をしなければならない。それだけ自分に関係ない勉強もすることになる。しかし、そんな役に立たないと思っていたものが役に立つことがある。環境が変わったときだ。
 実用的な勉強といっても、それは現時点で実用的なものであり、将来も役に立ち続けるという保証はない。環境が変われば、役に立たなくなる可能性が大きい。環境が変われば、それまで役立たなかった知識が役に立つものだ。実用性だけを基準にしたのなら、融通のきかない大人になるだけだ。だから安易に実用性をもとめる教育が、いい教育だとはいえない。基礎教育が必要なのは、環境が変わっても柔軟に対応できるからだ。
 筆者の主張を読んでいると、小学校レベルの勉強、中学校レベルの勉強、高校レベルの勉強、大学レベルの勉強をごちゃ混ぜにしているように思える。覚えるのが得意なときには覚える勉強をする。なんでもいいから覚えればいい。そんなことを覚えても役に立たないと大人が言ってはダメだ。どこでどんな知識が役立つかは分からないからだ。物事を考えるようになったら、考える勉強をする。これが無理なく効率的な勉強だ。

【解答例】
(ア)子どもの頃は授業がつまらなかったはずなのに、社会人入試は人気がある。しかも、そんな大人は授業が楽しそうだ。じっと耐えることこそが授業の狙いだという筆者の主張は的外れのようだ。授業がつまらなかったのは、何の役に立つのかが分からないからだろう。どんな知識もどこかで何かにつながっている。そのことを大人も分かっていないから、学校がつまらないという。今は役立たなくても、きっと何かの役に立つ。
(イ)勉強では自分で調べることが大切だ。しかし興味のないものを調べるほど苦痛なものはない。夏休みの宿題でも調べ物はつらかった。調べるにはまず基礎知識が必要だから、基礎力のない者に調べろというのは残酷だ。筆者の言うように自分で調べる力をつけるには、実は基礎知識が必要だ。英語も単語力がなければ話せない。今の基準で役立たないものも、環境が変われば役に立つ。
(ウ)教育が問題になるとすぐに制度が変わる。しかし、どんな勉強でも強制される限りはつまらない。制度が変わっても、勉強が強制されるものであるかぎりつまらない。基礎がつまらないのは強制されるからだが、応用には必ず必要なものだから努力するしかない。でも不思議に子どものうちは覚えるのが好きだ。単語だってどんどん覚えてしまう。覚えるのがつらいというのは、大人の先入観なのではないだろうか。

【解答のコツ】
(ア)傍線部アで、筆者は学校の勉強がつまらないものだと極めつけている。それは本当だろうか。そんなところから、自分の考えを広げていけばいい。
(イ)傍線部イで、筆者は自分で勉強することの大切さを言っている。自分で調べるということは、自分から勉強するということだ。でも何もないところから始めることはできない。自分で勉強するにも、まずは基礎がないといけない。筆者は基礎と応用を分けて考えているようだが、このように基礎があってこその応用だ。この基礎と応用の関係を述べれば、筆者の主張に沿いながら、筆者の主張を超えた内容になる。
(ウ)傍線部ウでは、制度はどうであっても子どもには順応力があると述べられている。それは、それまで教育はこうあるべきだと力説していた筆者の主張と矛盾する。実はどんな勉強も強制であれば面白くない。大切なのは制度を変えることではない。この点では筆者も正しい。さらにそこから、自分の子ども時代や身近な子どものことを思い出してみよう。就学以前の子どものを見れば分かるように、小さい子どもは覚えるのが好きだ。「なぜ」「なぜ」と大人をあきれさせるほどの探究心もある。そんな身近な例に気づけば、そこを出発点にして書けるはずだ。論理を破るのは自分の経験だ。具体例が重要なのは、それで常識を疑うことができるからだ。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

1996年東大前期・国語第二問「教育論」 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる