佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 1996年東大前期・国語第一問「科学思想」

<<   作成日時 : 2005/12/26 01:35   >>

かわいい ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

坂本賢三『科学思想史』より出典。
【問題文】
 科学研究にあたっては、科学者は常にある一定の前提のもとに対象に立ち向かっている。それは必ずしも研究者自身に意識されているとは言えないが、それでも事情は変らない。たとえば、現在の大部分の科学者は、対象の中に法則性があることを疑っては居らず、対象に内在するはずの「法則」を発見しようとしている。この場合、「法則」が存在するかどうかは科学の問題ではない。それは現代の科学者にとっては自明の前提なのであって、つまり前提なのである。
 しかし、対象の中に法則があるかどうかは必ずしも自明であるわけではない。つい四百年前までは、法則を発見しようなどという人は存在しなかったのであって、研究結果を法則として定式化しようという態度は歴史的に形成されてきたのである。しかし大多数の科学者は、先輩たちが大昔からそのような態度で自然を研究してきたと思い、現在にくらべてaミジュクで不完全であったと思っている。一体に科学者は科学の歴史にあまり関心を持たないのであるが、このような見方で科学の歴史を見れば、科学史は現在の研究に役立たない過去のbイブツに見えるのは当然である。しかしその場合、彼は、実は歴史を見ているのではなく、現代科学に通用するものを拾い出しているだけなのである。
 科学研究にあたって前提とされているのは、一つには、対象はこのようにできているはずだという自然観(社会観)と、第二に、このようにアプローチすれば対象を把握することができるという研究方法である。研究方法はいうまでもなく、自然観からくる。対象が要素から成り立っているとする自然観を採れば、できるだけ分解・分析して要素を見出し、要素間の関係を発見しようとするアプローチの仕方が方法となる。もし対象が何かある超越的存在によってすべて左右されているとする自然観を採れば、そのような超越的存在を把握することが課題である。このように、研究方法は対象をどのようなのものとしてとらえるかによってきまるのである。
 しかし、このような自然観および研究方法は、通常、科学者には意識されていない。その理由にはいろいろあるが、もっとも大きいのは、科学者としての訓練を受ける間に、無意識的に自明なものとして受容するからである。それができなければ、科学者の世界において科学者と認められない。その場合、自分の抱いている自然観にすら意識が及ばないのは、科学者の訓練がもっぱら問題の解き方に始まり解き方に終るからである。
 科学者が科学研究の仕方を身につけ、無意識的にある自然観を身につける場合、大体は指導者と教科書によっている。しかし実を言えば、講義を聞いたり教科書を学習するだけでは研究の仕方は身につかない。それは研究の結果を要領よくまとめてあるだけで、研究の過程を示してはいない。「要領よく」というのは、研究過程に必ずつきものの失敗や脇道へのcイツダツを切り捨て、過去の成功例だけを取り出して体系化しているからである。そして必ず解ける問題だけが問題として取り上げられている。このような抗議や教科書だけで学んだ科学者が、解ける問題だけを取り上げ、一定の手続きに従って行けば研究になると思い込むのは異とするに足りない。
 いずれにせよ科学者は講義と教科書によって、一定の自然観と方法を無意識に身に付けるのであって、すべては自明のこととして受けとられる。小学校のときからそのように育てられているのである。そういうわけで、この前提は、問いの立て方をも決めるものである。
 科学者にとってこの前提が意識されないもう一つの主な理由は、科学には前提を前提とみなさない無反省の態度が結びついているからである。科学および科学者と称する立場では、昔から自分たちは「ありのまま」にみているのだ、という態度をとってきた。前提つまり「色眼鏡」を通して見るから間違いを犯すのであって、前提なしに「ありのまま」に見れば真理が獲得でき、それが科学だと信じられてきたのである。科学の歴史を見ると、新しい見方の提唱の場合、かならず「ありのまま」に見ることが強調され、以前は偏見によってdクモらされ、歪められ、真実が見えなくさせられていたのだと主張される。しかし、この主張が何度も繰り返されてきたこと自体が「ありのまま」に見ることなぞありえないことを示している。つまり、人々はつねに「ありのまま」に見ていると確信してきたのであって、現在「ありのまま」にとらえていると思い込んでいても、いずれはそれも偏見であったと見なされる時がくるに違いない。「自分の見方がつねに正しくて、他人はすべて間違っている」と思っていることを科学者の特質として挙げた人がいるが、まさにその通りなのであって、過去の科学者もその当時において本人は「ありのままに見ている」と思っていたのである。
 科学者をしてそのように思わせているものこそ科学思想なのである。それは地域によって異なり、時代によって異なっている。そして、それぞれの地域と時代における科学研究の前提となってきたのである。

【設問】
(一)「このような見方」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
(二)「この前提は、問いの立て方をも決める」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
(三)「『ありのままに見ている』と思っていた」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
(四)筆者の考える「科学史」(傍線部イ)の課題について、簡潔に説明せよ。
(五) a ミジュク  b イブツ  c イツダツ  d クモ 

【解答例】
(一)科学は対象に内在する「法則」を発見してきた歴史であり、現在にくらべれば過去は未熟で不完全であったという見方。
(二)科学者は学校や教科書で成功例だけを学んでいるため、既存の自然観を疑うことなく、既存の研究方法で解ける問題だけを解くということ。
(三)実際には既存の自然観という「色眼鏡」を通して見ているにもかかわらず、科学者は「ありのまま」に見ていると信じ込んでいるということ。
(四)科学者が無意識のうちに持っている「前提」を明らかにすることで、現在の科学の現場に資することができる。
(五) a=未熟 b=遺物 c=逸脱 d=曇 

【解答のコツ】
設問の立て方が、傍線部ア・イ・ウ・エの順番ではなく、ア・ウ・エ・イの順番になっているのは、その通りに解答していくと、問題文のあらすじになるようにしたからである。このことに気づけば、解答作成が簡単になる。見直しも簡単だ。
(一)傍線部ア「このような見方」の内容は、指示語「このような」が指している直前の文「大多数の科学者は、先輩たちが大昔からそのような態度で自然を研究してきたと思い、現在にくらべて未熟で不完全であったと思っている」である。さらに、「そのような態度」の内容は、第一段落の「大部分の科学者は、対象の中に法則性があることを疑っては居らず、対象に内在するはずの『法則』を発見しようとしている」である。これら二つの文章をまとめればいい。傍線部アの直後に「過去の遺物」と記されていることからも、現在の科学者が、過去は「現在にくらべて未熟で不完全」と考えていることを含めて解答するといいことが分かる。
(二)傍線部ウ「この前提は、問いの立て方をも決める」は、「そういうわけで」という接続詞に続く文節であるから、その直前に傍線部ウといえる理由が記されていることが分かる。前段落の内容を参照しながら、直前の文を自分の言葉でまとめればいい。
(三)傍線部エ「『ありのままに見ている』と思っていた」は段落最後の文中にあるのだから、この段落の内容をまとめればいい。とくに「前提」を「色眼鏡」と言い換えている文があるのだから、それを使うとわかりやすい解答になる。
(四)傍線部イ「科学史」を含む文「このような見方で科学の歴史を見れば、科学史は現在の研究に役立たない過去の遺物に見えるのは当然である」に続けて、「しかし…」と記しているのだから、筆者は「科学史」が現在の科学に役立つと思っていることは確実である。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
かわいい

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

1996年東大前期・国語第一問「科学思想」 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる