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zoom RSS 1998年東大前期・国語第五問「時間」

<<   作成日時 : 2005/11/30 00:40   >>

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檜山哲彦『時の巨人』より出典。
【内容】
 さして用があるわけでもないのに、なにやら腰の落ち着かない年の瀬になると、毎年きまって思い出す句がある。
  年を以て巨人としたり歩み去る
 作者は高浜虚子だ。心そぞろなわが身に比べ、大股で歩む巨人の姿が大きく感じられ、その悠然としたさまに心を傾けたくなるせいだろうか。
 「年歩む・去ぬる年」は冬・歳末の季語だが、年末年始の虚子の句なら、
  去年今年貫く棒の如きもの
の方がむしろ人口に膾炙しているかもしれない。
 じっさい「時」の姿をこれほど生々しく、しかも簡潔に捉えた言語表現には、めったに出会えるものではない。
 そもそも「去年今年」という季語は、暦の上での断絶と時間の流れの連続を同時に言い表そうとしたものだ。見ようによっては、時間を計測し区別立てしようという、じつに人間臭い言葉である
 そこに、日常ありふれた棒という事物が組合わされる。「貫く」という押しとどめがたい動感、「棒」のもつ直接的で飾りのないイメージ、しかも「ボー」という野太く突き抜けるような音感が重なりあったのち、とどめは「如きもの」という捻り技だ。
 このうっちゃり技で、棒が棒という実体でありながら棒を超えたものとなり、「貫く」動きそのものと化して、ニュウッと姿を現してくる。これにもし名前を与えるとするなら、「時そのもの」を措いてほかにはない。
 それは、「われ在って在るもの」と自ら定義するユダヤの神エホヴァにも似ている。だが、ときには怒り、ときには妬む者として表情の見えるエホヴァにひきかえ、この「時」なるものは茫洋としてつかみどころがなく、のっぺらぼうだ。「時」はただただ貫くエネルギーでありつづけ、強いて人間に力を及ぼさないがゆえに、かえって得体の知れない薄気味の悪いものにすら感じられる。人間の尺度をはるかに越えたものがもつ気味悪さである。
 これに比べ、冒頭に掲げた句の「年」には、同じく「時」の姿が捉えられているが、それが巨人に喩えられているため、物語のなかにいるような手触りとぬくもりが感じられる。大きな背を向け、もしかしたら肩を落としているかもしれない大男の後姿に、なにかしら悲しみを宿るせいかもしれない。
 とはいえ、この句を幾度も読み返していると、不思議な逆転を感じることがある。「行く年」という季語によるのであれば、巨人はとうぜん過ぎ来し方へ歩み去り、こちらは振り返って見ているはずなのに、ややもすると、我が前を巨人が歩いてゆき、距りがしだいに大きくなるように思えてくるのだ。過ぎゆく年を見送るのではなく、むしろ時に置いてけぼりを食うような感覚である。
 そうなると、「時」の背中には悲しみの影など微塵もなくなる。あれは単に人間の勝手な感慨であり、センチメンタルな思い込みだったのだ。あるいはこう考えてもいいのかもしれない。じじつ年の巨人は次なる年の巨人にバトンを渡したのであり、やはり目の前を歩いているのは時の巨人。人間といえば、それら背を向けて遠離りゆくふたつの「時」の狭間に取り残された卑小な存在に過ぎない…
 などと曲解めいた読み方はさておき、虚子はこの「年の巨人」というイメージをどこから得たのだろうか。大晦日の別名「大年」からとも思えるが、そう単純ではあるまい。大正2年という年を考えれば、前年に崩御した明治天皇の面影もあるだろう。少しのちには「天の川おもとに天智天皇と虚子と」となる句もあるくらいだ。あるいは「去年今年」の句から逆に考えて、『荘子』に出てくる茫洋とした「渾沌」なる生き物も思い浮かぶ。さらに想像をひろげるなら、ギリシア神話の巨人(タイターン)族の首領クロノス。これはまさしくギリシャ語の「時(クロノス)」と混同されたというからには、かえって平仄が合いすぎるかもしれない。
 この句によって、時の流れはおおどかな巨人の姿を得た。ちんまりと手触りのいいこの時代、ときにはこんな句を呟いてみれば、心と身体の風通しがよくなろう。

設問(一)「じつに人間くさい言葉である」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。
設問(二)「棒という実体でありながら棒を超えたものとなり」(傍線部イ)とあるが、どいうことか、説明せよ。
設問(三)「不思議な逆転を感じる」(傍線部ウ)とはどういうことか、筆者の「感じる」順序に沿って説明せよ。

※解答欄は三問とも十三・七センチメートル×二行

【解答例】
(一)人間は言葉で区切ることで自然を認識するが、時間についても計測し「去年今年」と区切ってしまうところがいかにも人間的であるということ。
(二)「如く」ということで、棒のイメージと時間のイメージを重ね合わせ、時間の「貫く」という動きそのものをうまく表現しているということ。
(三)初め遠ざかる時の巨人の背中に悲しみを見ていたが、読み返すうちに、広がり続ける時間の大きさを見るようになったということ。

【解答のコツ】
(一)傍線部ア「じつに人間臭い言葉である」は段落の最後の文であり、当段落のまとめに当る文中にある。しかも直前に「時間を計測し区別立てようしようという」とあるのだから、評論文でよく主張されているように、本来連続的な自然を言葉や数によって区切り割り切ってしまうという人間の概念的思考のことを批判した文であることが分かる。
(二)傍線部イ「棒という実体でありながら棒を超えたものとなり」は段落最初の文中にあり、前段落の内容を受けながら、これから述べられる当段落の内容を指示しているはずである。しかも傍線部の直前で「このうっちゃりめいた技によって、棒が」といっているのだから、前段落を受けているのは明らかだ。前段落と当段落の内容を、自分の言葉でまとめればいい。
(三)傍線部ウ「不思議な逆転」は段落の最初の文中にあり、前段落の内容が、当段落でひっくり返されることを指示している。設問で「筆者の『感じる』順序に沿って説明せよ」とあるので、前段落の内容を述べたあと、当段落の内容を書けばいい。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
(1)(2)のどちらかで、「時は人間の尺度を超越したもの」を明示すべきだと思うのですが、どうでしょうか?

私は、(1)では「本来連続している時間を分節化」でそのニュアンスを出し、(2)では「人間を超越した時間の連続性を表現」として超越性を明示しました。

あと、最後の2段落(などと曲解めいた・・・)は設問と関係なしとしていいのでしょうか?どうもよく分かりません。最後の『心と体の風通し・・・』なんかは、もしや(3)の回答要素なのか?と疑いましたが、やはり(釈然としないものの)関係はないと感じました。
イチロー
2011/07/13 13:38
とてもいい考えだと思います。設問(1)も(2)も「時は人間の尺度を超越したもの」という意味が入っています。そのうえで(1)は人間の尺度について、(2)は人間の尺度を越えた時について述べています。

設問(3)と最後の二つの段落の関係ですが、最後から二つ目の「などと曲解めいた読み方はさておき・・・」の箇所は、設問(3)が筆者の創作であることを「曲解」と謙遜して見せたもので、つぎに「巨人」のイメージがどこから来たのか考えながら虚子の句の解釈に戻り、最後の段落の「心と身体の風通しがよくなろうというものだ」で虚子の句の解釈から生まれた自らの創作に戻るという効果があります。

そのため最後の二つの段落は、設問(3)を効果的に見せる働きがあります。もし解答に関係づけたいのであれば、「広がり続ける時を思うと心と身体の風とおしがよくなる」というように使うといいでしょう。

佐々木哲
2011/07/13 14:47

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