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help リーダーに追加 RSS 1998年東大前期・国語第一問「脳死」

<<   作成日時 : 2005/11/28 00:56   >>

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西谷修「問われる『身体』の生命」(『朝日新聞』1992年1月28日夕刊〈変わるか死生観「脳死臨調」答申に思う〉)より出典。
【内容】
 ふつう死は、心臓が停止して血流がとだえ、それに続く全身の生命活動の停止として起こる。ところが脳が先に機能停止に陥ることがある。この場合、中枢神経をまとめる脳の死によって全身もやがて死ぬことになるが、人工呼吸器の力でしばらく脳死状態の身体を「生かして」おくことができる。つまり死を抑制するテクノロジーの介入によって、死を中断された中間的身体が作り出されるのである。
 脳死が心臓死と決定的に違うのは、このきわめて現代的な「死」が、「中間的身体」を生み出すからである。脳の機能を失ったこの身体は、もはや人格としての発現をいっさい欠いて、いわば誰でもない身体として横たわっている。
 脳死が、現在の医学水準に照らして死の不可逆的な進行を示すものであるなら、臓器摘出で違法性を問われることはないだろう。だがそのことと、脳死を「人の死」と規定することはまったく違う問題である。脳死をめぐる議論で問われているのは、実は脳死と心臓死のいずれが厳密な意味での「人の死」かということではない。それは向こうから訪れる死を「みなしの死」と置き換えるということなのだ。
 移植治療では、訪れる死を確認していたのでは遅いのだ。そこで脳死を人の死とみなし、その段階で身体を人格性の拘束から解放することにする。だが、この「みなしの死」によって、脳死身体の「資材」化への道が開けることになる。役立たない自明の死を、人間の利益にそくして「役立つ死」へと転化することである。
 人間はこれまでありのままの世界を否定し、それを人間にとっての世界へと転化して、自己の可能性の領域を拡張してきた。その人間にとっても、死は最近まで無意味な喪失だった。だがテクノロジーは、死の領分から生に回収できる部分を取り戻すことができるようになった。喪失としての死が、生産的な死になったのである。
 だがこの論理は事態の「不気味さ」に目をつむっている。医療テクノロジーがもたらしたのは、人間を「非人間的」なものにする可能性だ。人間はテクノロジーの主人ではなく、テクノロジーによって変えられていくもののひとつになっているのだ。だから人間は、この「不気味」な状況から逃げるのではなく、この問題に真正面から取り組まなければならない。それが「非人間化」する世界の中で、われわれが取りうる「人間的」態度だろう。
 あの身体には、もはやそれを「私だ」と主張する人はいない。では、それは「人」ではないのだろうか。ここで本当に問われているのはそのことである。移植治療によって人が生きられるのは、人間が身体的存在だからである。つまり、死ぬべき臓器が他者において復活するのだ。それに、移植される臓器が生きているからである。その「生きている」身体から、それでも臓器が取り出されるのが許されるのは、その臓器が他者の身体に引き取られることでしか生きられないからである。一方それを引き受けた身体も、その臓器を完全に自分に同化することはできない。免疫抑制剤によって、自己の固有性を弱めなければならない。そのようなリレーによって、身体的生命はそれ自身の論理を貫いており、部分身体の受容と復活によって、不老長寿とは別の「不死性」に成功しようとしている。

【解答例】
(一)心臓死とは異なり、脳死では人格が失われているのに身体的には生きているという中間的身体を作り出さているから。
(二)心臓死による身体は利用できないため、脳死を「人の死」とみなして死にゆく中間的身体がもつ臓器を資材化するということ。
(三)現代のテクノロジーが人間に役立つ道具であることを越えて、逆に移植治療に見られるように人間を資材化しているという怖さ。
(四)不老長寿は人間の夢だったが、現在の医療技術は人格とは区別された身体を資材の交換によって永続させようとしているということ。
(五) a=厳密 b=拘束 c=拡張 d=悲惨 e=鍛(えて)

【解答のコツ】
わたしは、この文章に納得できないなと思いながら読んだ。脳死状態の者にとって、「わたしとあなた」という二人称的関係にある人間の欠如感に触れていないからだ。愛している者にとっては、脳死を不可逆的に死にゆく相手を「中間的身体」と認めることはできない。柳田邦男も『犠牲』のなかで主張しているように、現代医療に必要なのは「二人称の死」を迎えた者に対するケアである。また臓器を受け取った者が免疫抑制剤を使用しなければならないことについても、個人のアイデンティティの座が脳ではなく身体にあるのではないかという興味深い学説があるのに、そのことに触れていないから、わたしからみたら突込みが足りないなと思ってしまう。
 しかし最初から反抗的な目で文章を読むと、作者の意図を読みそこなう。東大国語・現代文では、作者の意図を正確に読み取ることが求められているのだから、まずは反論をやめて、相手の意見に耳を傾けなければならない。だから東大現代文のコツは、〈賛成しながら読む〉である。反論は問題を解いてからすればいい。実は正確に反論するには、正確に相手の言い分を聞く必要がある。東大は、正確に反論できる人物がほしいのである。だから東大入試では正確に読むことのできる能力を求めているのである。
(一)傍線部アは段落の最初の文であり、前段落の内容を受けている文であり、同時に当段落の内容の導入である。実際に傍線部ア「脳死が心臓死と決定的に違う」に続けて、「このきわめて近代的な『死』が、上に述べた『中間的身体』を生み出すからである」とあり、前段落で述べられている「中間的身体」の受けていることが分かる。同時に傍線部アのある段落の後半で、「中間的身体」のことを「脳の機能を失ったこの身体は、もはや人格的としての発現をいっさい欠いて、いわば誰でもない身体として横たわっている」と述べられている。これらをもとに「中間的身体」の説明を中心に、心臓死と脳死の違いを述べればいい。
(二)傍線部イ「向こうから訪れる死を『みなしの死』と置き換えるということ」は、段落の最後の文であり、当段落のまとめであると同時に次の段落につながる文である。この場合も、「みなしの死」の説明が、次の段落でされている。評論文では初登場の文言がある場合には、かならず後段で説明されている。
(三)傍線部ウ「事態の不気味さ」を含む一文が最初の文にあり、しかも逆説の接続詞「だが」で始まることから、「事態の不気味さ」については当段落で述べられていることが分かる。この段落では医療テクノロジーだけではなく、現代テクノロジー全般のことが述べられているので、医療テクノロジーに絞ることはない。あくまで現代テクノロジーの怖さを表す一例として述べればいい。
(四)傍線部エ「身体的生命はそれ自身の論理を貫いて」を含む一文は、最後の段落の最後の文であり、文章全体のまとめであることが分かる。しかし難しく考えることはない。最後の段落自身が文章全体のまとめなのだから、文章全体を踏まえた上で当段落をまとめれば、文章全体をまとめたことになる。

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