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鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』 【内容】 身体はひとつの物質体であることは間違いないが、他の物質体とは異質な現われ方をする。 たとえば、身体が正常に機能しているとき、ほとんど意識のなかに現われない。歩くとき、脚の存在はほとんど意識されない。意識することで、かえって脚がもつれてしまう。つまり、わたしたちにとって身体は、普通は素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。しかし、その同じ身体が、たとえば疲れているとき、病気のとき、にわかに不透明なものとして、あるいは腫れぼったい厚みをもったものとして、私たちの意識のなかに浮上してくる。そして、わたしの意識に一定のバイヤスをかけてくる。あるいは、わたしの意識をこれまでとは別色に染め上げる。ときには、わたしの世界との間にまるで壁のように立ちはだかる。わたしが馴染んでいたこの身体が、よそよそしい異物として迫ってきさえする。 あるときは、わたしたちの行為を支えながらも、わたしたちの視野から消えている。あるときは、わたしたちの行為を押しとどめる。こうした身体の現われ方は、別の局面でも見出される。それはたとえば、わたしたちが何かを自分のものとして「もつ」という局面だ。何かを所有するということは、何かを自分のものとして、意のままにするということだ。そのとき身体は、行為の媒体として働いている。つまり身体は、わたしが随意に使用しうる「器官」である。しかし、その身体をわたしは自由にすることができない。身体は痛み、あるいは倦怠を感じる。 こういう「神秘」を感じるのは、つねにわたしである。痛みは、つねにわたしの痛みであって、その痛みを誰か他人に代わってもらうことはできない。そのとき、痛みはわたしの痛みというより、わたしそのものであり、わたしの存在と痛みの経験を区別することは難しい。身体にはたしかに「わたしは身体をもつ」と言うのが相応しい局面もあるが、同時に「わたしは身体である」と言った方がぴったりくる局面もある。わたしと身体の関係は、対立や齟齬といった乖離状態もあれば、密着したり埋没したりするときもあるというように、極端から極端へと揺れ動く。 身体は皮膚に包まれている肉の塊であることは、自明のことのように思われる。しかし、それはどうもあやしい。たとえば怪我をして、一時期杖をついて歩かなければならなくなったとき、はじめは持ちなれない杖の感触が気になる。しかし持ちなれてくると、掌の感覚は杖の先まで伸びて、杖の先で地面の形状や固さを感知できる。感覚の起こる場所が掌から杖の先まで伸びたのだ。身体の占める空間はさらに、わたしのテリトリーにまで拡張される。見ず知らずのひとが、自分の家族なら抵抗のない至近距離に入ってきたとき、皮膚がじかに接触していなくても不快感を感じる。公共の場所でも、いつも自分が座っている座席に、別の人間が座っていると苛立たしい。このようにわたしの身体の限界は、物体としての身体の表面にあるわけではない。わたしの身体は、その皮膚を超えて伸びたり縮んだりする。気分が縮こまっているときには、身体も収縮する。身体空間は、物体としての身体が占めるのと同じ空間を構成するのではない。 【解答例】 (一)身体が正常に機能しないときには、わたしとわたしの身体が分離して、身体が意のままにならないものに感じるから。 (二)事物を意のままにしようとするとき、身体を使って対象に働きかけ、自分の意思を実現しているということ。 (三)前者は身体を心と切り離して客観視しているのに対して、後者は心と身体を一体のものとして主体の側のものとして見ているという違い。 (四)道具を使いこなすことは、道具がわたしの一部になることであり、道具を使うことでわたしの可能性を身体を超えて広げることができるから。 (五) a=染(め上げる) b=襲(う) c=埋没 d=自明 【解答のコツ】 設問(三)(四)に「筆者の論旨にしたがって」とあるように、筆者の意図を正確に読むことが求められている。議論をするとき、相手の意図を曲解して批判してしまうことが多い。せっかく相手が自分と同じことを言っているにも、相手の意図を曲解して、自分の味方になるはずの人を批判してしまう。こんなことは学界でも社会人でもよくある。だから東大にかぎらず大学入試では、相手の主張を正確に読みとれる学生がほしい。現代文はそのためにあると思ってほしい。 (一)傍線部アは段落最後の文であるため、段落の内容をまとめるといい。とくに傍線部アは、わたしにとって身体が異物に感じられるといっている個所なのだから、段落の四行目にある逆接の接続詞「が」の後をまとめるといい。やはり、逆接の接続詞の後が重要だと分かる問題だ。 (二)傍線部イの後に、言い換えの接続詞「つまり」があるので、後の文章「つまり身体は、わたしが随意に使用しうる『器官』である」を自分の言葉に直せばいい。このとき、何を「随意に使用しうる」のか、傍線部イの前文を見ればいい。 (三)傍線部ウは段落の半ばにある文である。しかも接続詞もなく前文から続いている文章だから、前文の言い換えであることは明らかだ。前文が分かりやすい言葉で、具体的に書いている文であり、傍線部ウは抽象的な言葉でまとめている文である。また自分の言葉で説明するときに、段落前半で使用されている「身体一般」がどう意味で使われているのか考えること。医者から見た「身体一般」というのは、患者の身体ということだから、対象としての身体だと分かる。それに対して「だれかの身体」というのは、患者にとっての自分の身体である。つまり客観的に対象としてみている身体と、痛みを感じているわたし自身としての身体である。 (四)傍線部エも、段落半ばにある文である。しかも、前文から接続詞もなく続いている文である。やさしい言葉で具体的に記されている前文のを内容を、傍線部エは抽象的な言葉でまとめているのである。だから前文を自分の言葉でまとめるといい。本文は心身二元論から身体一元論、そして道具も自分の一部であるという主張というように、段階的に進んできているのであるから、それを踏まえて解答すればいい。しかも傍線部エは前向きな内容であり、限界が広がることを、可能性が広がることと言い換えてもいいだろう。一歩抜き出た内容になる。 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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はじめまして、今年東大を受験する者です。 |
受験生 2008/02/08 00:05 |
質問は、個人指導の受講者からのものしか受け付けていませんので、簡単に応えさせていただきます。 |
佐々木哲 2008/02/08 04:25 |
そうだったのですか、失礼しました。 |
受験生 2008/02/08 11:28 |
受験生の解答としては、良い解答だと思います。 |
佐々木哲 2008/02/08 17:41 |
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