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zoom RSS 絶望と希望

<<   作成日時 : 2005/11/03 00:13   >>

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2004年東大入試前期国語第四問は、多木浩二の『写真論集成』より出典。「世界は存在し、かつ人間も存在している」と述べているように、世界と人間の実在を認めたうえで、世界と人間のズレに注目している。評論文ではよく「差異」と記されているものだ。しかも世界のことを「超人間的」と述べている。この多木浩二の主張を発展させて、その超人間的な世界が客観性だと主張することができる。
 わたしたちは、現実に対して何もできないという無力感を感じることがある。この目の前に現れた壁は、まさに主観を超えた客観性である。それを壁と感じてしまうのは、わたしたちが固定観念に縛られているからである。壁を目の前にして感じる無力感を越えたところに、これまでの固定観念を打ち砕く新たな可能性がある。絶望は、実は既成概念を打ち破り、未知の世界に入っていくには必要不可欠なものなある。
 わたしたちが行動すると、必ず自らの意図を超えたものが現れる。私たちの行為の対象は、それが人であれ物であれ、自分の外にあるものである。しかし、そのような対象との間に生じたズレに、私はひかれる。多くの場合、それが壁と感じられるものだが、その壁はまさに自己を越えた世界の表出である。世界は人間によって構成されたものではなく、また人間の意識によって構成されたものでもない。世界は存在し、人間も存在している。そして世界は反人間的なわけではなく、ただ超人間的な全体である。それが反人間的なものと思えてしまうのは、わたしたちが固定観念に縛られているからである。
 わたしたちが固定観念に縛られてしまうのは、実は主観性と客観性が一致する瞬間があるからである。壁を乗り越えた瞬間が、まさに主観性と客観性が一致した瞬間である。このとき、ほんらい異なるはずの主観性と客観性が一致することに驚く。当初は客観性を壁と感じていたため、その客観性を獲得したときには、それが驚きとなり、感動となるのである。このように主観性と客観性が一致する瞬間があるからこそ、一致した瞬間を固定してしまう。成功例と同じことをすれば、成功し続けると考えてしまうのである。
 世界は自己を越えた全体である。ひとつの方法で世界を支配しようとしても、必ずはみ出てしまう。このように主観性と客観性の間にズレが生じたとき、そのズレは例外・失敗として無視されてしまう。そのズレは最初は無視できるほど小さいものだが、無視し続けることで主観性と客観性は乖離し続け、ズレは拡大していく。そして壁となる。わたしたちは成功例を真似し続けることで危機に陥る。わたしたちにとって有益なのは成功例ではなく、実は失敗例なのである。
 失敗はケアレス・ミスだけはなく、未知との遭遇も含まれる。失敗を失敗として受け流すのではなく、失敗の結果できたものに興味を持つことで、失敗は失敗ではなくなる。成功は失敗の母であり、失敗は成功の母である。
 わたしたちは現実を前に絶望するが、その絶望が希望の契機になる。それが、自分を超えた全体としての世界との出会いだからである。わたしたちが変わらなければ、絶望は絶望のままだが、わたしたちが変われば、絶望は希望になる。わたしたちが頑なだから、相手も頑なになる。わたしたちが変われば、相手も変わる。
 

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