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zoom RSS 2001年東大前期・国語第四問「携帯電話」

<<   作成日時 : 2005/11/17 01:29   >>

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岡部隆志『言葉の重力』より出典。
【内容要約】
携帯電話を通した会話は、独り言の掛け合いではないだろうか。会話の中に特に伝えたいことを強調するポイントがなく、ただ自分のことをとりとめもなくしゃべっている。そこにあるのは、自分の独り言を一方的に話すという関係である。
 インターネットで飛び交う声も、独り言に近い。だから私はそこに私的な文章を載せる気になれない。文は自分に向って書くもの、他者へ伝達するものと、私は思っているからである。
 独り言には、何かを伝えようというメッセージ性がない。かといって、友人との楽しいおしゃべりのように、相手の反応を確かめるものでもない。独り言はとにかく感じたことを文字にすればいいので、誰も読んでくれなくてもかまわないというものである。言い換えれば、文体がない。文体には、相手に自分が伝えがたいものを伝えようとする工夫であるが、インターネットでの文章は、とにかくしゃべってしまおうという文章なのだ。
 インターネットで飛び交う文章は、携帯電話で自分のことをとりとめもなくしゃべる言葉と基本的には同じだと思われる。独り言のやりとりといえる。
 独り言的な言葉の氾濫を目の当りにして、私は正直とまどっている。私の文には自分なりの文体がある。文体とは、私が他者に関わる態度であり、私の世界を他者に伝える方法である。私の思想といってもいい。しかし、それは私の世界を他者に無理強いするものであり、多義的で流動的な現在の世界に対して私を閉じてしまうことでもある。言い換えれば、私を不自由なものへと縛り付けているのも文体でもある。
 携帯電話やインターネットというコミュニケーション文化がなかった頃、自分のことをすべて聞いてくれるような関係を作ることは大変だった。だから、誰もが自分なりの文体を作ろうとした。小説や詩もそのような文体の一つだ。独り言のニュアンスを持ちながらも、他者に関わる一つの方法だった。だが、自分という存在を丸ごと聞いてくれる関係が可能なら、文体など必要ないといわれれば、確かに必要ないと答えてしまいそうになる。これは困った。文体など必要ないと言ってしまうことは、私が私をいらないといっていることと同じようなものだからだ。
 われわれの文学的な言葉が抱え込む共通の価値を一言で言えというなら、それは「孤独」である。そのように考えるならば、携帯電話のやりとりやインターネットでの膨大なおしゃべり群は、実に「孤独」である。文体という抽象力を持たないがゆえに、その「孤独」はより生々しく現実的である。しかも社会的である。

【解答例】
(一)何か伝えたい内容があるわけでもなく、また相手の反応を気にするでもなく、ただ一方的に自分のことを話しているだけだから。
(二)文体は自分らしさの表出だが、そのために多義的で流動的な世界を自分の視点で固定してしまうという欠点もあるから。
(三)文体を必要ないと言ってしまうことは、自らのアイデンティティの放棄を意味しているのと同じことになるから。
(四)携帯やインターネットでのおしゃべりは、自分らしさの喪失をともなっているため、そこで抱えられている孤独は深刻であるということ。

【解答のコツ】
東大国語の現代文を読むときに注意してほしいことは、どんなに反発したい内容であっても反発しないで、賛成しながら読むということである。本文では携帯電話について論じられているが、前半部は携帯電話を使用しない人が携帯電話のことをよく知らずに批判しているので、携帯電話をしている使用している人からは読むのもイヤになる。しかし、後半部の筆者の持論はいい内容になっている。前半部で反発して、そのまま反発した目で後半部を読むと筆者の意見を汲み取ることができなくなる。
 文体があるということは自分なりの見方があるということであり、自分らしさを持っているということである。だから文体を必要ないということは自分らしさを放棄することにもなる。もちろん、自分なりの見方を持つということは、自分なりの見方しかできないという限界にもなるが、それは逆に自分なりの切り口をもつという個性にもなる。文体を持たないオシャベリしかできないということは、つまり文体がないということ、個性がないということになる。実際、現代においてアイデンティティの喪失は深刻な問題でもある。占いブームにも見られる「自分探し」は、そのことをよく示している。
 これは東大現代文に限らず、受験現代文全体にいえることだが、受験生が反論できるほどヤワな評論文を出題することはない。出題者は、その評論文を読んで何かを感じてほしいと思って出題しているのである。これが出題者の意図だ。まず反論をやめて、筆者の言いたいことに耳を傾けることだ。それが出題者の意図に応えるということになる。
(一)傍線部アは、それまでのエピソードをまとめた段落の最初の文であり、この段落の内容をまとめればいい。
(二)傍線部イの直前に「言い換えれば」とあるので、直前の文を自分の言葉で書けばいい。その直前の文は「だが」で始まっており、やはり逆接の接続詞の後の文は、筆者が主張したい文だと分かる設問になっている。ただし「…も私の文体である」と言っていることは、文体の長所を認めた上で短所を述べているということだから、解答でも長所に短く触れた後で、「だが」以下の短所をまとめると、さらにいい解答になる。
(三)傍線部イのある前段落で、「文体」がアイデンティティを意味していることを理解できていれば、この設問は簡単である。傍線部ウを自分の言葉に言い換えるだけである。「文体」をいらないということは、とりもなおさず「自分らしさ」をいらないと言っていることと同じである。筆者が「これは困った」と言った気持ちが分かるはずだ。
(四)傍線部エは文全体の結語だが、「孤独」についての結語であるため、「孤独」について書かれている最後の段落の内容をまとめればいい。携帯やインターネットでのおしゃべりのことを、筆者はそれまで理解できないといっていたが、傍線部エの直前から理解を示している。どうして理解できたのか、その理由が傍線部エで書かれていることである。傍線部エの直後に「しかも、社会的である」と述べていることから、筆者が社会問題として捉えていることが分かる。自分の言葉で書けるかどうかの分かれ目は、「文体」が「自分」という意味だと分かっているかどうかだろう。「文体という抽象力をもたない」というのは、自分を持たないという意味である。

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コメント(2件)

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(2)ですが、
「固定的な自己の世界を無理強い」することになるので、「多義的・流動的世界から自己を遮断してしまう」
という説明をしたのですが、どうでしょうか?
イチロー
2011/12/24 13:52
筆者は文体の必要性を訴えるとともに、「多義的・流動的世界」を尊重しており、文体がそれを自分の価値観で固定してしまう可能性があることを危惧しています。

ここで筆者は文体を捨てるのでもなく、また「多義的・流動的世界」から逃げるのでもなく、あえて文体によって「多義的・流動的世界」を言い表そうと葛藤します。

そのため「多義的・流動的世界から自己を遮断する」と解釈するのは外れていると思います。
佐々木哲
2011/12/25 01:10

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