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zoom RSS 2002年東大前期・国語第一問「生と死」

<<   作成日時 : 2005/11/10 23:37   >>

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村上陽一郎『生と死への眼差し』の中の「死すべきものとしての人間」より出典。
【内容要約】
一人称の死は、生きているかぎり決して体験されることのない、未知のものである。それは論理的には知りえないものである。では、知りえないものに対しての恐怖はどのような形をとるのだろうか。おそらく死への恐怖は、人が人間であることの証明であるといえるだろう。
 まず消極的な面から考察してみよう。第三人称の死は、私にとっては単なる客観的な事物の消滅であり、本当の意味での「死」ではない。自分の前に立ちはだかる未知の深淵としての死を考えるにあって、何の糧にもならない。それに対して第一人称の死は、「私」は誰からも手助けされることなく、完全な孤絶のなかで、それを体験することになる。
 この「私」の死がもつ徹底的孤絶さゆえに、人は迎えるべき死への恐怖を増幅して感じる。つねに人どうしの関係性のなかで生きてきたわれわれは、死において、かかる一切の関係性を喪い、ただ一人で死を引き受けなければならない。このことへの恐怖が、逆説的に人が人間として生きてきたことへの証明となるだろう。
 他方、積極的な意味でも、死は人の人間たることの証明になる。そこに二人称が介在するからである。西欧近代思想は、自我を強調してきた。しかし私は「私」として外界から隔絶された存在としてあるのではない。母親と幼児や、愛し合う二人のように、私たちは生まれてからずうっと「われわれ」の中にいたのであり、「われわれ」が「私」を造り上げたということができる。
 この観点から見るとき、個我の孤絶性は抽象的に過ぎないものである。それゆえにこそ、第一人称が迎えようとする死は、人間にとって極限の孤絶性を照射する唯一のものかもしれない。

【解答例】
(一)自分の死はいずれ必ず訪れるものではあるが、体験されていないため、語るとしても推測でしか語れないということ。
(二)自分から見て、他人の死は単に客観的な事物の消滅に過ぎないものであり、主観的に捉えることができないから。
(三)完全な孤独の中で死ぬという恐怖を感じるということが、逆に自分がこれまでさまざまな関係の中で生きてきたことを証明するということ。
(四)人は孤立した自我として生きてきたのではなく、母親・友人・配偶者との関係の中で生き、形成されてきたということ。
(五)人は人との関係の中で生きており、知性によって理解された自我は抽象的な思考が生み出したものにすぎない。そのため人は自分の死を迎えることで初めて、自分が人との関係の中にいたことを知るとともに、それを失うことの恐怖に直面することになるから。
(六) (a)空疎 (b)錯覚 (c)模倣 (d)抱擁

【解答のコツ】
この問題のテーマである「死」は、誰でも一度は考えたことがあるだろう。自分の死を考えたときに、その絶対的孤独さに恐怖した経験があれば、本文の内容に沿いながら自分が思った恐怖をまとめていけばいい。東大は、本を読んで得た知識しか持たない者ではなく、普段から自分なりに物事を考えている者をほしがっているということが分かる問題である。
(一)傍線部ア「第一人称の死、つねに未来形でしかありえないもの」は、段落の最初にあるため前の内容を受けていることは明らかであり、さらに「未来形」とあることから第一段落の「決して体験されることのない、未知の何ものか」とあることに注目するといい。あとは、うまく自分の言葉に直せばといい。解答例では、「推測するしかない」とした。
(二)傍線部イ「陳腐だった三人称の死」は、段落の最初にあり、しかも「このとき、それまで陳腐だった…」となっている文であるため、やはり前の内容を受けている。しかし前段落というよりも、前々段落の「第三人称の死は、私にとって、消滅であり、消失であった」(最初の文)や「それで自分の死について何か感ずるところあったとは言えまい」の言いかえと考えればいい。あとは、一人称=主観的、三人称=客観的、ということに気づくかどうかだ。一般的には客観的の方がいい意味だが、ここでは客観的に見るということは冷ややかに見るということを意味し、主観的に見ることがいい意味をもち、自分のこととして真剣に考えることを意味する。評論文は常識を疑うだから、このような発想の転換がある。
(三)傍線部ウ「この逆説性」が段落の最後にあるため、この段落をまとめればいい。「死」が「生きてきた」ことの明証となるから、「逆説性」であることに気づいていれば書けるはずだ。
(四)傍線部エ「『われわれ』が『私』を造りあげた」は、具体例が述べられている段落の最後の文であり、しかも次の段落が「このような状況は、幼児においても…」と始まるので、前後の内容をまとめればいい。
(五)傍線部オは、後半部の内容〈死への恐怖の積極的意味〉の最後の決めの文であり、しかも西欧近代思想の「個我の孤絶性」を「抽象的構成」と批判した文に続いているから、〈人は人との関係の中で生きている〉をテーマに、西欧近代思想の「個我」批判をすればいい。けっして難問ではない。むしろ筆者村上陽一郎が科学批判を得意とする科学哲学者であることを知っていれば、やさしい問題だ。

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