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zoom RSS 2004年東大前期・国語第四問「写真」

<<   作成日時 : 2005/11/02 02:20   >>

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多木浩二『写真論集成』より出典。
【内容要約】
「写真になにが可能か」と自問すると、質疑応答に見られるような答えというよりも、ほとんど肉体的反応ともいえる二通りの答えが生じてくる。
 ひとつは、現実に対して「写真にはなにもできない」という一種の無力感である。しかし、その無力感を乗り越えたところから、「写真に可能ななにものかがある」という認識が生まれてくる。実は、私たちは日々こうした二通りの答えの間を揺れ動いており、どちらか一方ではけっしてありえない。このようなことは、なにも写真だけのことではない。すべての表現芸術についていえる。
 たしかに私たちは現実を前に無力感に陥らざるを得ない。しかし「写真にはなにもできない」と言い切っってしまうこともできない。むしろその無力感を契機にして、私たちは既成に価値観を粉砕し、未知の世界に立ち入っていくことができるからである。私たちは、写真に対して有している常識をひとつひとつはがしていく必要がある。
 写真が、私たちに衝撃を与える機会は明らかに存在する。たとえばベトナム戦争で報道写真家が撮った「路上の処刑」という写真を例に挙げることができる。その写真は、南ベトナムの国警長官ロアンが、捕らえた解放軍兵士の射殺する場面を撮った二枚の写真である。一枚は、一人の男がもう一人の男にピストルを向けている写真であり、もう一枚は、次の瞬間にイモ虫のように解放軍兵士がころがっている写真である。この兵士の死は写真には移されていないが、二つの写真のあいだに兵士の死という事実があったということを、私たちは感じることができる。
 このことは、言葉であらわせない私たちの存在の深いところに衝撃を与える。しかもこの写真家は、戦争を告発する意図を持って撮影したわけではない。私たちが不気味さを感じることのできた消失した世界は、写真家の思想や意識を越えたものである。写真には、つねに主体の意図を超えたものが現われてくる。写真は、自分の内部の思想を表現するものだという常識は、いつも写真によって裏切られている。
 写真家は、心の内なる世界をあらわそうとしても、写真に写るものは自分の外にある対象である。だが、そのような世界とのズレに、私はひかれる。写真は、世界が自己をこえていることを明らかにする。世界は人間によって構成されるものではなく、また人間の意識によって構成されたものでもない。世界は存在し、かつ人間も存在している。世界とは反人間的な、あるいは超人間的な全体であるといえる。

【解答例】
(一)写真に何ができるのか考えたとき、写真には何もできないという無力感と、写真に可能な何かがあるという認識を繰り返すということ。
(二)写真は真実を写すと一般的には考えられているように、写真に関してはさまざまな誤解があるということ。
(三)二枚の写真の間に兵士の死という事実があるのが明らかなように、写真家の意図を超えたものを私たちは感じ取ることができるということ。
(四)一般的に写真には写真家の思想が表現されると考えられているが、実は写真家が意図していないものも必ず現れているということ。

【解答のコツ】
この文章も小洒落た表現で小難しい文章だから、慣れていないと読みづらく、文意を正確に読むことができない。内容は、流行の相対主義に流れることなく、「世界は存在し、かつ人間も存在している」と述べたものだ。世界と人間の実在を認めたうえで、世界と人間のズレに注目している。評論文ではよく「差異」と記されているものだ。しかも世界のことを「超人間的」と述べていることから、彼の思想が、ズレが生じたときには人間主観を越えた客観性を重視する立場に発展していくことは明らかだ。やはり、この文章も哲学的思想に慣れていれば読みやすい。
 解答するにあたっては、段落の最初と最後に注目し、さらに段落の最後の文章は次の段落の最初の文章とつながっていることに留意して読んでいけば、素直に全体の内容を読み取ることができる。しかも最後の段落で、きちんとまとめてくれているので、全体の内容を把握するのは、意外と簡単だ。さらに傍線の意味を知るには、全体の内容を考慮に入れながら、傍線の前後を見ればいい。このようにオーソドックスに読んでいけば解答できるという点で、易しい問題だといえる。第四問という、残り時間がない中でこの問題を解かせれば、いかに日頃から哲学的思考に慣れているのかどうかが分かる。そのような意味で良問である。
(一)傍線部アが「このような事情」であるのだから、この段落をまとめればいい。さらに次の段落が「たとえば」で始まり、具体的に書いてくれているのだから、その内容も参考にすると、さらにまとめやすくなる。
(二)傍線部イが「いわば」で始まるのだから、直前の文章を読むことで、傍線部イの「擬制」が直前の文章の「既成の価値」の言い換えであること分かる。しかも評論文では既成概念や常識はいい意味では使用しないのであるから、ここで述べられている「既成の価値」「擬制」が打破しなければならないものだと分かれば、あとは簡単にまとめられるはずだ。
(三)傍線部ウは、直前の文章を感傷的に言い換えたものであるから、直前の文章をまとめればいいのだが、実は次の段落が「この醜悪さ」で始まり、さらに最後に「ゼロ化」という言葉があるため、この段落を参考にすると書きやすくなる。
(四)傍線部エで「俗流の考え方は…裏切られる」と述べられているので、筆者が写真表現に関する常識を疑おうとしていることは明らかである。さらに傍線部エは段落の最初にあるのだから、前の段落を受けていることも明らかだ。そこで、筆者が常識を疑おうとしていることに留意しながら、傍線部ウの直後から傍線部エの直前にかけて書かれている内容をまとめればいい。
 また設問(四)に「わかりやくすく説明せよ」とある通り、東大現代文では自分の言葉に直すことが強く求められる。自分の言葉に直せるということは、文章の内容を深いところで理解しているということであり、自分のものにしているということだからだ。文中の言葉を抜き出しただけでは、ただ受験テクニックで重要そうなところを抑えて機械的に書いているだけだろうと思われてしまう。東大は、普段から本を読み、自分の力で考えているような受験生がほしいのである。

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なるほど(納得、参考になった、ヘー)

コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
(1)について、写真ではなく表現芸術としたほうがいいのでは、と一瞬思ったのですが、「このような事情は写真に限らない。この事情は表現芸術すべてにいえる」の文脈から、やはり写真とすべきと考えました。

この解釈でOKですか?

巷の解答例を見比べると、内容がぜんぜん違ったりしますね。わりと小さな差だったらいいものの、大きな違いがあると、どうしたら良いか迷ってしまいます。そんな時どうしたらよいでしょう?
イチロー
2011/07/30 17:20
すいません。追加です。

写真家は撮影者としてもだいじょうぶですか?
イチロー
2011/07/30 17:38
傍線部(一)「このような事情」が指しているのはあくまで「写真に何が可能か」という問いと「写真には何もできない」「写真に可能ななにものかがある」という二様の答えの繰り返しです。そして「このような事情」は写真に限ったことではなく、表現芸術のすべてにいいうると続くので、同じことは他の芸術にも言えますが、「このような事情」はあくまで写真についてのことです。先走りした解答をしてはいけません。

写真家を撮影者とするのは、やめた方がいいと思います。筆者は芸術家としての写真家のことを言っているからです。

ところで巷の解答例を比較すると、大きな差があるとのことですが、その通りです。東大の現代文は哲学的ですので、国語科の講師には荷が重いのでしょう、哲学を学問している人間から見るとありえない解釈も多くあります。そのため、あなたのように予備校の解答などに疑問を持った東大受験生は、自分が納得できる解答を求めてネットサーフィンをするのです。わたしがブログで予備校基準と大学基準の違いを記したり、解答例を掲載したりするのも、そのためです。あなたが多くの解答例に接して、納得できるものを選ぶといいでしょう。
佐々木哲
2011/08/02 13:59

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