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<<   作成日時 : 2005/10/31 00:24   >>

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2004年東大入試・国語第一問の問題文の内容は、「個の没落」という言葉でも分かるように、悲観的な相対主義である。しかし、確固たる個がないということを積極的に評価することもできる。
 個性とはいっても、実は自分の内側から生じたものではない。他者との関係の中で自分はつくられている。本当の自分はどこか遠くにあるものではなく、自分が日々の生活の中でつくっていくものだ。占いをしても、心理テストをしても、自分の部屋にこもっても、本当の自分は見えてこない。自分探しをしても、自分を見つけることはできない。自分を知りたければ、積極的に他者と関わればいい。こんなとき、自分なら、どう思うだろう。自分なら、どう判断するのだろう。自分なら、どう行動するのだろう。そのときの自分の思いが、自分の判断が、そして自分の行動が個性だ。
 もちろん、自分で判断すると入っても、いつも同じ判断をするとは限らない。しかしそのことは逆に、個性が自分の内側にある確固たるものではなく、けっして固定されたものではないことを証明している。
 自分が自分でないと思うのは、自分が思っている自分と他人が思っている自分が食い違っているときだ。それが自己同一性の危機である。ただ、ここで注意しなければならないのは、自分が思っている自分も、他人が思っている自分も、本当の自分だということである。どんなに性格の明るい人間でも、気に食わない人間というときは暗い性格になる。どんなに暗い性格のものでも、気の合うものといるときは明るい。しかし、どちらも自分である。そう、ひとの性格というのはそういうもので、他者との関係の中で規定されていくものである。そのような複数の自分が相互に関わりながら、ひとりの人格が形成されている。
  それは他者も同じことだ。他者もそれ自身として確固たる者として存在しているわけではなく、わたしとの関係の中で存在し、日々変わっている。そのため他者を過大評価することもできない。自分も他者も相互関係の中で存在し、存立している。そこに転がっている石ころだって、地球規模の地殻変動のなかで生成され、川に流されながら小さくなって、誰かによって運ばれてきたものだ。そして石ころも用途によって有益なものにも、無益なものにもなる。
 現実の世界の中に、単独で成立し、存立しているものはない。すべてのもが何かしらの関係の中にあり、わたしもそのような関係の中にいる。わたしたちは生きていることで、すでに真理と関わっている。それを真正面から受け入れることができるかどうかだと思う。もちろん、このことは運命に従順であれということまでは意味しない。運命に逆らうということも、運命の受けとめ方のひとつだ。まず自分に与えられた事実から逃げずに、真正面から向い、そこから出発するということだ。自分探しは自分を探しているといいつつ、目の前に壁として現れた真実から逃避するということにほかならない。自分とは逃避することによってではなく、受けとめ向っていくことで見つかるものである。
 このように考えるわたしにとって、哲学とは机に向って本を読むことでも、難しい言葉を駆使して哲学の素人を翻弄するものでもない。現実の壁を目の前にしたときに、自分が持っていた固定観念を打ち破ることである。どんなに優れた考え方も一面的であり、万能ではない。だから現実の世界の中では、必ず壁にぶつかる。そのとき自分の考えが一面的であったことを認める勇気を持つことができるかどうかである。このとき、本当の自分の判断力が試される。自分の個性を試されるときである。自我を通すことは必ずしも個性とはいえない。自分の筋が通っているときには自分を主張し、自分が誤っているときには素直に誤る者が、本当の判断力を持つ者である。自分を知りたくなったら、自分のうちに籠もるのではなく、他者との関係の中に飛び込むといい。そして自分なりの判断をするのである。自分とは日々の生活の中で判断するものであり、その判断の仕方がまぎれもない自分の個性である。自分の性格を直したければ、つぎは違う判断をすることである。

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