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zoom RSS 『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」2

<<   作成日時 : 2005/09/14 15:44   >>

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系譜学の試み
 わたしの研究方法は、まず系譜伝承には錯誤・隠喩という形で史実が含まれているという前提から出発する。そのため系図の記述をそのまま使用するのではなく、錯誤・隠喩のもとになる史実を探し出すため、まず系譜伝承をさまざまな要素に分解する。つぎに抽出した要素をもとに作業仮説を立てる。そしてその作業仮説を資料に照らし合わせ、矛盾があれば修正し、無矛盾なものにして仮説(学説)として採用する。後一条・後朱雀朝で乳母子として活躍した左馬頭良経(系図上の宇多源氏義経)の事跡も、この方法を用いて明らかにした。
 『尊卑分脈』宇多源氏流では、宇多源氏義経の本名を章経とし、官位は兵部丞・式部丞・兵部大夫であったと伝える。本名と官位に注目すると、『小右記』長元四年(一〇三一)二月七日条の「内大臣(藤原教通)使兵部丞章経」という記事に注目できる。しかし、有職故実では兵部丞から式部丞へ遷任されて叙爵されたのちに兵部大輔に至ることはあっても、兵部丞から直接叙爵されることはありえないため、『尊卑分脈』の兵部大夫という記述は明らかに誤りである。実際に兵部丞章経は、六年後の長暦元年(一〇三七)に後朱雀天皇の六位蔵人藤原章経として記録に見える(『平記』長暦元年十月二十日条、『春記』長暦二年十月二十九日条)。兵部丞から蔵人兼左衛門尉を経て叙爵されたのである。しかも彼は藤原氏真夏流(日野流)家業の子息甲斐守藤原章経であった。宇多源氏義経とは別人である。また『中右記』大治五年(一一三〇)四月三日条に「兵部丞藤義経」、同記保延四年(一一三八)正月二十二日条に「式部丞藤原義経」が登場するが、年代が一致しない。やはり宇多源氏義経とは別人である。
 官職から宇多源氏義経を探すのをあきらめ、今度は『尊卑分脈』で、義経の母を朱雀天皇御乳母菅野敦頼とすることに注目した。もちろん朱雀天皇の乳母では年代が合わない。しかし当時の私家集では後朱雀院を「朱雀院」と記すものもあり(『範永集』など)、当時の表記法でも後朱雀天皇を指すと考えていいことが分かる。
 つぎに後朱雀天皇乳母と菅野敦頼娘を分けて、後朱雀天皇乳母に注目する。そうすると、『左経記』寛仁元年(一〇一七)八月十日条の敦良親王(のち後朱雀天皇)の東宮坊除目の記事で、当時六位大膳進であった源成経が東宮殿上人に列していることに注目できる。源成経を見つけたときは、正直興奮した。この人物は、沙々貴神社系図にのみ記されている人物で、『尊卑分脈』にも記載がないからだ。それが当時の日記で確認できたのである。しかも記載していたのは、義経・成経兄弟の叔父源経頼(参議左大弁)であった。
 このように義経の兄弟成経が、後朱雀天皇東宮時代の東宮蔵人であれば、義経・成経兄弟が後朱雀天皇乳母子である可能性が高い。この成経という人物を記載していた沙々貴神社系図の資料的価値は高い。
 兄弟成経が後朱雀天皇に親いことを『左経記』で確認できたため、次に義経を探す。すると『左経記』長元五年(一〇三二)二月十九日条に面白い記事があることを見つけた。経頼が参内したところ、仰せがあり、前日一八日左馬頭良経朝臣の従者が、右大将藤原実資の随身を打ったため、今日十九日下手人を奉るよう宣旨があり、検非違使が良経邸に派遣されたという。さらに一日上達部が言うには、看監長・放免らが邸内に入り乱行したという。このことについて何か聞いているか尋ねられた源経頼は、検非違使が到来したことは伝え聞いているものの、看監長の乱行は聞いていないと答えた。そこで、確かめるよう仰せがあった。五位以上の家は宣旨で指示がなければ入ることはできず、しかも良経は上達部であり、龍顔(後一条天皇)に親しく、検非違使の所行はたいへん非常なものであるとも仰せであった。経頼は退出して、良経に問うたところ事実と分かった。そこで経頼はその旨を、夜に参内して言上している。
 この記事で、左馬頭良経が源経頼の親族であることが確認できるとともに、殿上人であったこと、さらに後一条天皇に親い存在であったことも分かる。良経は後朱雀天皇乳母子ではなく、後一条天皇乳母子の可能性が出てくる。後朱雀天皇乳母子という系譜伝承から「後朱雀」を抜いて、広く天皇乳母子と捉える必要があるかもしれないと考えてみる。
 その後の良経について知りたいと思い、『左経記』に続く時期について記されている『春記』を読む。すると、まず良経の記事の多さに驚く、これまで注目されてこなかったのが不思議なくらいだ。またこの記事の多さから、良経が小野宮流の人々と交流があったことが分かる。
 その『春記』長暦二年(一〇三八)十二月十四日条に良経が皇后給で正四位下に叙位されたという記事がある。そこに良経の素性が分かる「良経為世後子也」という記述を見つけた。おそらく略して書いてあるのだろう。最初は何を意味するのか分からなかった。このときは後朱雀天皇の時代であり、皇后は三条天皇女禎子内親王である。さらに『平行親記』長暦元年(一〇三七)二月十三日条で、良経が皇后宮亮であったことが確認できる。良経は後朱雀皇后禎子内親王に親く仕えていたのである。しかも『春記』長暦2年(一〇三八)十一月二十五日条に後朱雀天皇の第二親王(のち後三条天皇)着袴の儀の様子が記されており、良経は第二親王を抱いているのである。良経が皇后禎子内親王・第二親王母子に親い存在であることが分かる。良経の父成頼は、皇后宮禎子内親王の父三条天皇東宮時代の東宮殿上人である。成頼・良経父子は、三条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇・皇后宮禎子内親王・後三条天皇に親い存在だったのである。まさに歴代の乳母の家系である。
 ところが、ここで問題が起きた。『平行親記』に良経は「藤原良経」と記されているのである。そうであれば良経は源成頼の子ではない。『尊卑分脈』によれば、成頼・経頼の縁者権大納言藤原行成の次男である。しかし『春記』長暦二年(一〇三八)十二月十四日条の「良経為世後子也」という記述に再び注目した。そしたら、この記事は「良経は世尊寺(藤原行成)後子となるなり」と読めたのである。行成の次男藤原良経は、行成の実子ではなく、行成の次男になった人物だったのである。実子ではなく、養子を実子として育てたのであった。藤原良経(権大納言行成の子)と源良経(中将源成頼の子)は同一人物だったのである。
 「良経為世後子也」というわずか7語の解釈に数日かかったが、それだけの価値はあった。この記事の解釈ができたのは、系譜伝承に見られる宇多源氏義経の事跡を仮説に立てて資料を読み、左馬頭良経の事跡(天皇乳母子という源義経の事跡)と氏姓(藤原朝臣という藤原良経の氏姓)の矛盾点に気づいていたからである。そうでなければ、「藤原良経」と記されているのを見て、藤原行成の次男良経だと判断して終わり、その先に進まなかったはずである。宇多源氏の系譜伝承を知っていたため、実は行成の実子ではなかったことにたどり着いたのである。
 また沙々貴神社系図では、良経(義経)を追捕使・兵部大輔であった伝えるが、これは良経が前九年合戦のとき陸奥守を更迭された源頼義に替わって陸奥守に補任され(『扶桑略記』『百錬抄』)、源頼義が陸奥守再任後に兵部大輔に遷任されたことと一致する(『百錬抄』)。『尊卑分脈』では兵部大夫とするが、沙々貴神社系図でいう兵部大輔が正しいことが確認できた。
 ただし、このことは沙々貴神社系図の系譜伝承がそのまま正しいということまでは意味しない。同系図は良経の官位左馬頭を、兄弟源成経の官位として記するなど錯誤が見られるからである。そのため系譜に書かれていることをそのまま信じるのではなく、まずは分解してみることが必要になる。 

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