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zoom RSS 『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」1

<<   作成日時 : 2005/09/13 20:00   >>

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 これまで江戸初期の学者沢田源内は、旧近江守護家佐々木六角氏の子孫と名乗るため、戦国期の近江守護六角氏綱に義実−義秀−義郷という架空の人物をつなげ、自らを義郷の子息氏郷を記す系図を創作したと考えられてきた。しかし氏郷と同時代の人々には、氏郷はまさに佐々木六角氏の直系と認められていた。さらに幕府編集の『寛政重修諸家譜』でも、氏綱の弟の系統である定頼−義賢−義治を「佐々木庶流」としている。どうやら学者沢田某は事実にもとづいた佐々木系図を記しただけで、しかも佐々木六角氏直系の氏郷とは別人のようだ。
 まず天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』奥書によって、相国寺住持と氏郷のあいだに親交があったことが分かる。寛文三年(一六六三)九月晦日たまたま氏郷が相国寺を訪れ、愚渓等厚禅師(九九代住持)と対談した。禅師は氏郷に対して、当山の開山である夢窓国師は、公(氏郷)の先祖宇多天皇の九代の後胤であり、国師の父親が長谷観音に祈り生まれたと話した。これに氏郷は、つぎのように答えた。夢窓国師は建治二年(一二七六)十一月一日生まれで、観応二年(一三五一)九月晦日に化している。ところが、わが家の九代はちょうど保元・平治の乱のときに当り、夢窓国師の生まれた建治年間とは二〇〇年の開きがある。わが家の中興の祖六角氏頼(一三二六−一三七〇)は夢窓国師とほぼ同世代であるが、その氏頼は宇多天皇の十八代の嫡孫である。これらのことから、夢窓国師を宇多天皇九代の後胤とするのは誤りであると述べた。しかし禅師は、このことを記しているのが後小松天皇の宸翰であり、誤りであるはずがないと反論している。それに対して氏郷はさらに答えて、宸翰であろうと誤りはあるものだと切り替えした。禅師はなおも納得しなかったが、諸老はこれを聞き、氏郷の言っていることがもっともであるとし、年代を改めるべきであろうとした。禅師もこれら諸言を聞くことで納得し、氏郷に謝礼を述べている。その日の夜、氏郷の夢に紫衣老僧が現れ、降誕の年代の誤りを正してくれたことに礼を述べたという。目を覚ますとすでに空は白んでいた。氏郷がその旨を愚渓禅師に話すと、その日はまさに夢窓国師の忌辰であり、深く感嘆したという。汝舟妙恕(一〇〇代住持)も感慨に堪えがたく禿毫を染めた。それが『夢窓国師俗譜』の奥書である。
 ひとはどうしても権威があるものを正しいと思ってしまう。しかし氏郷は、天皇の宸翰であろうと誤りは誤りであると主張した。この氏郷の態度は、まさに実証を重んじる学者にふさわしい態度である。わたしたちも見習わなければならない。
 ところで氏郷は相国寺では氏郷朝臣と呼ばれていた。朝臣と敬称で呼ばれるのは四位の者である。実は宇多氏流の公家庭田重条が、万治三年(一六六〇)十一歳のとき六角氏を称して従五位下大膳権大夫に補任され、伏見宮殿上人に列していた。氏郷が相国寺を訪れたのが、その三年後の寛文三年(一六六三)である。しかし実兄雅秀が病気がちであったため、重条は寛文五年(一六六五)庭田家に帰家してしまった。こののち重条は従一位権大納言に至り、武家伝奏も勤めている。重条は氏郷の養子として六角氏を称したのかもしれない。実際に氏郷には男子がいなかった。
 『京極家家臣某覚書抜萃』によれば、氏郷は丸亀藩主京極家と親交があり、藩主高豊の子息を養子にしていたという。やはり氏郷に男子はなかったのである。つぎに同書によって氏郷の事跡を追ってみよう。
 天和年間(一六八一−一六八四)京都に佐々木六角氏の末孫六角中務少輔という人物がいた。中務少輔は浪人であるにもかかわらず、白小袖の下着を着用していた。それを不審に思った京都所司代稲葉正則(丹後守)は二人の与力と申し談じて中務少輔宅に赴き、貴殿にては何の官位昇進があって白小袖の下着を着用しているのかと、対面のうえ尋ねた。すると中務は少しも驚かず返答している。佐々木氏には往古より永補任御免許があり、わたしも家伝定式のとおりにしているだけだと答えたのである。丹後守はなおも不審に思ったが、中務が永補任の書付を持参して委細を述べたため、その後は不問とされた。
 この事件に関して、『覚書抜萃』には稲葉丹後守宛京極高豊書状の写しが掲載されている。その書状は稲葉丹後守の質問に丸亀藩主京極高豊が答えるというものであり、六角中務について聞かれた高豊は六角兵部なら知っていると述べている。兵部は中務の前名であろう。
 その後について、『覚書抜萃』には次のように記されている。天和末から貞享初めのころ六角兵部殿という御方が京都に住んでいたが、その家臣阿閉内蔵丞が丸亀藩の役人に対面をもとめ、大目付伴孫次兵衛が対応した。やはり京極家側では六角兵部と認識していたようだ。このとき阿閉が伝えた内容は、六角兵部には相続の子がないため、佐々木六角氏に伝わる家宝七品を京極家に譲渡したいというものであった。幸い高豊が在城していたため、すぐに受納することを承諾し、阿閉を饗応した。兵部に対する藩主高豊の返書は、これまで疎遠であったが毎年銀を三十枚進ずるというものであった。これに関して六角中務大輔の礼状も掲載されている。やはり中務と兵部は同一人物であった。
 その三年後には兵部殿が丸亀を訪れている。そのとき京極家中では、兵部六角御相続は高豊の御子様であるため、合力銀を停めて、丸亀に招いて二千石か三千石を進めるのがいいだろうと話が持ち上がっている。この記事で高豊の子息が氏郷の養子になっていたことが分かる。やはり六角氏郷と沢田源内は別人である。
 元禄年間(一六八八−一七〇四)に記されたと推定される沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、沢田源内と同一人物と考えられる沢田郷重(母和田氏)は、万治三年(一六六〇)に没している。元禄六年(一六九三)に没した氏郷とは別人であることが、このことでも分かる。実は沢田氏は佐々木一族で、戦国期には沢田兵部少輔(思文閣所蔵文書:年未詳八月二十九日付籾井名主百姓中宛沢田秀忠書状、および和田文書:年未詳五月十一日付浅井長政宛織田信長書状)が活躍している。このように見てくると、後世の沢田源内像は、水戸藩仕官を目指した学者沢田某と六角氏郷を同一人物と見立てた想像上の人物だと分かる。
 沢田源内を偽系図作者とする通説は、実は江戸中期に書かれた小林正甫の『重編応仁記』や建部賢明の『大系図評判遮中抄』の記述を鵜呑みにしたものであった。実は彼らは誤解をしていた。それが今日の沢田源内批判の源流である。
 宝永五年(一七〇八)加賀藩士佐々木定賢が幕府旗本佐々木高重を訴えるという事件があった。加賀藩士佐々木定賢は六角承禎(義賢)の長男義治の曾孫である。また幕府旗本佐々木高重は次男高盛(高定)の孫である。
 定賢の主張は、幕府旗本高重は自らを佐々木嫡流とする系図を幕府に提出したが、義治の直系である自分こそが佐々木嫡流というものである。さらに義実−義秀−義郷の実在も否定して、沢田源内批判を展開した(「佐々木氏偽宗弁」系図綜覧所収)。実は『重編応仁記』『大系図評判遮中抄』は、この定賢の一方的な主張をもとに書かれたものである。しかも定賢を高重の子と勘違いしたうえで、定賢が高重を幕府に訴えたのが事実であるにもかかわらず、高重・定賢が沢田源内を幕府に訴えたと誤解してしまった。小林正甫・建部賢明は自分たちできちんと実証したわけではなく、一方の言い分を鵜呑みにしていただけであった。しかも建部賢明は幕府旗本高重の縁者である。決して中正の立場にはない。ところが彼らが高名な学者だったため、彼らの著作の内容は今日まで疑われなかった。これが沢田源内批判の源流である。これでは、沢田源内批判はけっして実証的とはいえない。
 歴史学の基本は、後世に書かれた2次資料ではなく当時の資料であるはずだ。しかも、わたしが今回使用した天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』も京極家所蔵『京極家家臣某覚書抜萃』も、どちらも東大史料編纂所に写本がある。問題意識さえ持っていれば、すぐに見つけ出せるところに資料はあった。それにもかかわらず従来の沢田源内批判は、当時の資料で確認しようともせず、ただ先人の言葉を鵜呑みにしていたのである。
 沢田源内が創作したと考えられていた義実−義秀−義郷の三代の実在も、当時の資料で確認できる。義実は参議(唐名宰相)と伝えられているが、『鹿苑日録』には江州宰相と呼ばれる人物が記載されていた。しかも江州宰相の実名は、義久であった。実名が異なっていたのでは、いくら義実という名で資料を探しても見つかるはずがない。実在しなかったではなく、探し方が間違っていたのである。『鹿苑日録』は、足利義満の菩提寺相国寺鹿苑院住職である鹿苑僧録が書き継いだ日記であり、資料的価値はとても高い。義秀の名は、宮廷絵所預の土佐光茂の名画『犬追物図』に見える。義郷は、本名義康で『太閤記』『聚楽亭御成記』などに登場している。
 系図研究に関する著書のほとんどで、沢田源内批判がされている。しかし、そのどれもが自分で実際に資料で確かめたものではなく、ただ先人の主張を鵜呑みにしたものばかりだ。それは歴史研究では決してしてはならないことである。実際に当時の資料に当たれば、義実-義秀-義郷の実在は確認できる。はじめから実在しないと決め付けていたから、見つからなかったのである。実在するという視点から出発すれば、実名は異なるかもしれないと考えることができ、そして見つけることができる。これは、系図の記述をそのまま信じるのではなく、系図をもとに仮説を立て、資料に拠りながら仮説を修正していくという方法だ。このように用いれば、系譜伝承も立派に歴史学の資料となる。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
本文を読ませて頂き、胸のつっかえがすっきりしました。史実を正確に読み解く力というものを感ぜずにはいられません。
守山市東光寺にある義実公の供養塔に添えられた「多らちねとおもひおきてしその人も今日はなき身と聞くぞかなしき」足利義輝、江州の太守佐々木二十四世の家嫡・北陸道の管領参議源ノ義実朝臣は予が慈父の如し、ここに一首を追善のためつづかく物なり、の一文がその人物の実在を訴えているように思います。
堀尾岳行
2005/09/14 00:11
早速の投稿ありがとうございます。本文が近日公刊の『佐々木六角氏の系譜』の序になりますので、ここ数日をかけて完成させます。小さな変更があるかもしれませんので、また目を通してください。
佐々木哲
2005/09/14 00:31

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