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zoom RSS 常盤恵冠者為俊(再改訂版)

<<   作成日時 : 2005/08/16 23:00   >>

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平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承3年(1134)5月15日条では「四位陪従家定」とある。
 『平家物語』巻一の「俊寛の沙汰・鵜川軍」で、為俊は「童より」白河院の北面に伺候した切れ者と記されている。実際に寛治2年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(寛治二年高野行幸記)では「童子平千手丸」と童名で見えており、童形で院北面であったことが確認できる。このとき藤原盛重や橘頼里らは実名(成人名)で見える。
 『中右記』寛治4年(1090)4月9日条では「左兵衛少尉平為俊」とある。実名(成人名)を名乗るのは一般的には元服と同時であるが、平安中期以降には皇子女の親王宣下、上級貴族の童昇殿、女性の宮仕え、叙爵などが改名の契機となっていた。公的身分に就くためには名簿を公的機関に提出しなければならないため、たとえ元服以前であっても公的身分標識として実名が不可欠になったのである。藤原頼長の場合も童殿上を契機に実名を名乗っている。為俊の場合も、左兵衛少尉補任とともに実名が必要とされたのだろう。
 ここで初官として、権官ではなく正員の左兵衛少尉に補任されていることにも注目できる。一般に衛門尉・兵衛尉とある場合は権少尉である。それにもかかわらず、元服前後の少年が初官として正員の左兵衛少尉に直任されている。これも、やはり白河院の鍾愛によるものだろう。実は舞童に選定された童たちが左兵衛府で舞の教習をうけるということが行われており(『三代実録』元慶6年3月27日条、『伏見宮御記録』代々御賀記・女御賀例)、為俊は左兵衛少尉に補任されることで、左兵衛府で実践的に行儀見習いを受けていたと考えられる。
 さらに、『為房卿記』寛治6年(1092)正月25日には左兵衛尉為俊が「院辺追捕賞と称して」検非違使に補任された記事がある。記主藤原為房は為俊の検非違使補任を「他府希代例云々」と記して驚いている。これは、検非違使は衛門尉が兼任するのが通例であるためだ。しかし、驚いた理由はそれだけではないだろう。『官職秘鈔』では兵衛尉で検非違使を兼任した例として源斉頼とともに為俊を挙げている。元服前後の少年が、前九年合戦のときの出羽守源斉頼と同じく、兵衛尉から検非違使に補任されたのである。斉頼は、禁中に籠もる犯人を捕進して使宣旨を蒙ったため(『百錬抄』『扶桑略記』)、それを前例に為俊も「院辺追捕賞と称して」使宣旨を蒙ったのである。ところが、為俊に「院辺追捕賞」が実体をともなったものか不明である。
 実は、『中右記』寛治6年4月18日条に「左兵衛尉平為俊、為検非違使、是千手丸也」とある。元服前の童が任官した場合は、公的には実名で呼ばれても私的には幼名で呼ばれ、藤原頼長も童殿上を契機に実名を名乗ったが、その後も父藤原忠実は幼名で呼び続けている。為俊も白河院からは幼名で呼ばれていたのだろう。それに対して記主藤原宗忠がことさら「是千手丸也」と私的な幼名で呼んだのは、実態が童であるにもかかわらず、白河院の鍾愛という私的理由で検非違使に補任されたことを好ましく思っていなかったからと考えられる。童が左兵衛少尉に直任し、しかも2年後には検非違使という重職に補任されたのである。宗忠でなくても驚く。
 しかし為俊は左衛門尉に遷任されることなく、左兵衛少尉のまま検非違使を兼官した。このことでも、彼が武者として期待されていたわけではないことが分かる。白河院は、為俊を行幸の花とするために検非違使に補任しただけであろう。そうであれば、警固を任とする左衛門尉に遷任させる必要はない。『尊卑分脈』宇多源氏流では「常恵冠者」、また佐々木系図では「常盤恵冠者」と称されたと伝えているが、この冠者名でも為俊が花ある人物であったことが分かる。
 その後も検非違使に在職していたことは確認でき(『中右記』寛治7年8月20日条・寛治8年3月8日条・嘉保3年7月10日条)、康和2年(1100)正月5日には従五位下に叙爵されて(『殿暦』)、宿官として下総介に補任された(『魚魯愚抄』巻七)。宿官とは、蔵人・式部丞・民部丞・検非違使などが従五位下に叙爵されたとき、適当な官職がないときに仮に補任される官職のことである。このとき為俊は叙爵されたのである。叙爵されれば五位の陪従として行幸には参列できる。武者ではない者が検非違使である必要はない。
 同じく白河院の寵童として知られる藤原盛重は、為俊より早く寛治2年(1088)にはすでに実名(成人名)で呼ばれていたが(『白河上皇高野御幸記』)、その盛重の検非違使在職が確認できるのが康和4年(1102)4月25日(『中右記』)以降であることを考えると、その2年前康和2年(1100)に叙爵されていた為俊の昇進は速い。為俊に対する白河院の鍾愛ぶりと、為俊の出自の高さが分かる。小舎人(殿上童)であった可能性が高い。嘉承3年(1108)正月24日には、検非違使の功績で駿河守に補任された(『中右記』)。天永2年(1111)10月17日には任国から馬十疋・牛十頭を献上しており、駿河守に在職していたことが確認できる(『殿暦』)。しかし重任は叶わなかった。白河院は一日も早い帰京を願っていたのだろう。そのため為俊は二度と国司に補任されることはなかった。
 『中右記』大治4年(1129)閏7月25日条にも駿河守として見えるが、このときは前駿河守であったと考えられる。この記事は、白河院没後もひきつづき平忠盛・為俊らが鳥羽院並びに女院北面に列したというものであり、忠盛に続けて為俊が記され、依然として北面の有力者であったことが分かる。
 ところで『尊卑分脈』『続群書類従』をはじめとする佐々木系図で、為俊は源季定に改名したとされるが、『長秋記』長承3年(1134)5月15日条の賀茂行幸の記事で、舞人のひとりとして四位陪従家定が見える。「舞人左中将公隆、右少将公能、侍従公通、政範、為通、光忠、右大臣孫、蔵人二人泰友、ゝゝ、四位陪従忠盛、家定」という記事である。陪従とは賀茂神社・石清水八幡宮などの祭儀や行幸で、神楽の管弦・舞・歌などに従事する四位・五位の地下である。そのため位階は四位であっても殿上人に続けて四位陪従として記されている。しかし実は平忠盛も源家定もすでに昇殿を許されている。忠盛は長承元年(1132)3月13日に(『中右記』)、家定は長承3年(1134)4月9日に(『長秋記』)それぞれ昇殿を許されているのである。そのため、この記事の「陪従」は院北面(下北面)を意味していたと考えられる。賀茂行幸で忠盛とともに舞人を勤めた四位陪従家定は、白河院没後に忠盛とともに鳥羽院北面に列した為俊の改名後の姿だろう。これで、これまで為俊の晩年が不明であった理由が分かる。改名していたのである。諸系図では「季定」と見えるが、実際には「家定」と名乗っていたことも分かる。草書体が似ていたために誤って伝えられたのであろう。やはり為俊は武者ではなく陪従として期待されていたのである。
 実は、この時期もうひとり「家定」と名乗った人物がいる。それは村上源氏右大臣顕房の子息皇后宮亮信雅である。信雅ははじめ「家定」と名乗り、寛治7年(1093)3月6日には昇殿を許されて殿上人に列し、左馬権頭、右近衛少将、加賀介を経て陸奥守に補任され(『中右記』『長秋記』)、天承元年(1131)8月9日まで「家定」と名乗っていたことが確認でき(『長秋記』)、長承3年(1134)3月19日に皇后宮亮に補任されたときには「信雅」と名乗っていた(『中右記』『長秋記』)。翌4月9日に昇殿を許された院北面家定とは明らかに別人である。
 さらに『長秋記』保延元年(1135)4月21日条に「家主季房朝臣、家定朝臣以下、一家人々十二人也」とある。この記事をそのまま読めば、院北面家定が村上源氏に列していたことになる。『尊卑分脈』村上源氏流で、六条右大臣顕房の子息皇后宮亮信雅の子に季定が記されて、「実者顕房公子云々」とあるのはこのためだろう。さらに信雅の子息近江中将成雅の記事に「或季定子也云々」とある。実際に『長秋記』の記事で、為俊が改名後に村上源氏の養子になっていたことが分かる。また家主季房に続けて家定が記されており、家定は季房の養子として村上源氏に列したことも分かる。
 私がこのような結論に至ったのは、『尊卑分脈』村上源氏流で、右大臣顕房の子息信雅に注目していたからである。信雅の子息成雅が「或季定子也云々」と記され、さらに信雅の子息に季定があって「実者顕房公子云々」と記されている。ここで二つの作業仮説を立てた。ひとつは、季定(本為俊)が村上源氏の養子になり、さらに村上源氏の公達成雅を養子にしたとういう作業仮説である。もうひとつが、村上源氏信雅(本家定)と季定(本為俊)が混同されて、信雅の子息成雅に季定の子息と誤り伝える系譜伝承が生まれたという作業仮説である。混同される要因としては、季定が同名「家定」を名乗っていたということが考えられる。この作業仮説をもとに当時の記録を読み、村上源氏信雅とは別人の四位陪従家定を見つけることができた。そして為俊の改名後の実名は「季定」ではなく、「家定」であったと結論づけたのである。さらに『長秋記』保延元年(1135)4月21日条に「家主季房朝臣、家定朝臣以下、一家人々十二人也」とある記事を見つけ、為俊が改名後に村上源氏に列していたことを明らかにした。ただし今後も研究を続けていく必要があるだろう。
 為俊には、右兵衛尉為兼という弟がいたことが当時の記録で分かる(『中右記』寛治7年10月3日条・康和5年4月17日条)。寛治7年(1093)3月の『白河上皇春日社御幸記』で「為利弟也」との割注が付される小舎人童「袈裟牛丸」は為兼の前身であろう。同年3月に袈裟牛丸と呼ばれ、10月には右兵衛尉為兼として登場するため、兄為俊と同様、元服前後に兵衛尉に任官したことが分かる。白河院の取り計らいであろう。弟為兼も院殿上童であった。この為兼は、為俊(家定)の弟行定と同一人物と考えられる。この行定の子孫が、近江佐々木荘下司として現地管理に当たった源行真である(『源行真申詞記』)。その一族である山崎氏は、平為兼と源行定が同一人物であることを裏付けるように、「佐々木末流平氏」と称している(『山崎家譜』)。
 『平家物語』長門本では為俊を三浦氏とし、続群書類従本三浦系図では為俊を三浦義明の祖父為次の弟とする。しかし三浦義明が生まれた寛治6年(1092)には、為俊もまだ元服まもない少年であり、兄弟ほどの年齢差しかない。しかも為俊には、弟右兵衛尉為兼までいる。この為俊・為兼兄弟を三浦義明の大叔父とするには年代が合わない。 また『尊卑分脈』藤原氏良門流では藤原章俊の養子としているが、管見の限り藤原氏を称した形跡はない。『尊卑分脈』宇多源氏流にあるように、為俊は宇多源氏流であろう。

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