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<<   作成日時 : 2005/07/24 03:38   >>

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『長秋記』は村上源氏左大臣俊房の二子権中納言(兼皇后宮権大夫)師時の日記だが、その元永2年(1119)8月14日条で、後三条天皇の孫有仁王へ源氏賜姓のこと、三位に叙位すべきことが記されている。さらに続けて「以某丸可任掃部属者」と、童の任官のことが取り上げられている。『中右記』同日条を見ると清原清友が掃部少属に任じられているので、『長秋記』の「某丸」が清原清友と分かる。これは、任官によって成人名を名乗った例となろう。
 ほかにも『中右記』永長元年(1097)8月20日条に「右兵衛尉某丸」、同記康和4年(1102)閏5月25日条に「將監某丸」が登場しており、童任官があったことが確認できる。『中右記』大治4年(1129)2月10日条に上皇と女院不快のことのひとつとして「弾正忠所被挙申変頼友、被任幼少為雅事」が挙げられているが、これは幼少の為雅を弾正忠という重職に任官していた例となろう。
 『長秋記』大治4年(1129)11月7日条に「今度平野行事ノ某丸依所労今度不勤仕」とある。やはり童が平野行事という大役を任されている。このように院政期には童が任官したり、重職に幼少のものが任官したりしていたのである。 
 その先駆けともいうべき人物が、白河院政初期の平為俊である。平為俊は寛治2年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(寛治二年高野行幸記)では「童子平千手丸」と童名で見え、童形で院北面であったことが確認でき、さらに『中右記』寛治4年(1090)4月9日条では「左兵衛少尉平為俊」とあることは、任官によって成人名を名乗ったのだろう。こののち『中右記』寛治6年(1092)4月18日条では「左兵衛尉平為俊、為検非違使、是千手丸也」と記され、公的には任官しているため成人名を名乗っているが、私的には童であったことが確認できる。記主藤原宗忠が、ことさら「是千手丸也」と私的な幼名で呼んだのは、白河院の鍾愛の童である為俊を好ましく思っていなかったからだろう。童から左兵衛少尉に直任し、しかも2年後には検非違使という重職に補任されるという昇進の速さには、宗忠でなくても驚く。白河院が為俊を一日も早く公的な儀式に参加させたいと思い、左兵衛少尉に補任し、行儀見習いをさせた上で、2年後には行幸で活躍する検非違使に補任したのである。
 同じく白河院の寵童である藤原盛重は、寛治2年(1088)の『白河上皇高野御幸記』ではすでに「盛重」と記され、すでに元服していたことが分かるが、その盛重が検非違使に在任していることが確認できるのは康和4年(1102)である(『中右記』康和4年4月25日条)。しかもその2年前の康和2年(1100)正月5日に為俊は従五位下に叙爵されているのである(『殿暦』『魚魯』)。このことでも為俊の出世の早さが分かると同時に、為俊が武者ではなく、陪従として期待されていたことが再確認できる。
 為俊には、実は右兵衛尉為兼という弟がいた(『中右記』寛治7年10月3日条・康和5年4月17日条)。寛治7年(1093)3月の『白河上皇春日社御幸記』で「為利弟也」との割注が付される小舎人童「袈裟牛丸」は為兼の前身であろう。同年3月に袈裟牛丸と呼ばれ、10月には右兵衛尉為兼として登場するため、兄為俊と同様、元服して直ちに兵衛尉に任官したことが分かる。白河院の取り計らいであろう。このように為俊の弟為兼も、兄と同じように昇進していた。

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