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zoom RSS 祐子内親王家紀伊と経方

<<   作成日時 : 2005/07/17 00:23   >>

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小倉百人一首の72番「音にきく高師の浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ」(名高し高師の浜のあだ波を、袖に掛けたりはしません 掛けてしまって涙で袖を濡らしたくはありませんから)で有名な歌人祐子内親王家紀伊は、母小弁と同じく後朱雀天皇皇女祐子内親王(高倉一宮)家に出仕し、長久2年(1041)の祐子内親王家歌合、康平4年(1061)の祐子内親王家名所合、承暦2年(1078)の内裏後番歌合、嘉保元年(1094)の藤原師実家歌合、康和4年(1102)の堀河院艶書合、永久元年(1113)の少納言定通歌合などに出詠した。
 小倉百人一首の歌は康和4年(1102)の堀河院艶書合のもので、『金葉集』に収められたものである。艶書合は、公達に女性への懸想の歌、女房にその返歌を作らせて合わせるという特殊な形式のもので、中納言藤原俊忠の「人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそいまはまほしけれ」(荒磯の浦に波が寄るように夜あなたのもとへ行きたい)に対して、紀伊が男の懸想(けそう)を拒絶の一首を呼んだのである。紀伊高師浜の風景を詠みながら、裏では男心の浮気心を皮肉って求愛を退けるという内容である。
 このように紀伊は、歌人としての経歴ははっきりしているが、父についてはさまざまな説があり、出自がはっきりしない。『尊卑分脈』では桓武平氏高棟流の平経方の娘とし、『作者部類』では散位平経重とする。また『袋草子』では紀伊守藤原重経の妻とし、『和歌色葉』では妹とする。
 ところで母小弁は、『後拾遺集勘物』によれば藤原氏南家流の越前守藤原懐尹の娘であるという。後朱雀天皇の皇女祐子内親王家に仕え、長元5年(1032)の「上東門院菊合」、長久2年(1041)の「源大納言(師房)家歌合」、永承4年(1049)の「六条斎院歌合」、同5年の「祐子内親王家歌合」などに出詠しており、宇多源氏流権大納言源経信からも歌を贈られている。
 母小弁が越前守藤原懐尹の娘であれば、紀伊守藤原重経の妹であるのは紀伊ではなく、母小弁である。これで『袋草子』や『和歌色葉』の説は脇におくことができる。私はここで、紀伊が平経方の娘と伝えられる一方で、『作者部類』で平経重の娘と伝えることに注目する。
 実は、沙々貴神社所蔵佐々木系図では経方の妹に歌人大夫局の記述がある。この歌人が紀伊と同一人物ならば、『作者部類』でいう散位経重は、宇多源氏経方の叙爵後の姿である。
 蔵人経方は、『帥記』康平8年(1065)7月7日条に後冷泉天皇の蔵人として登場するが、その後の経歴を当時の記録で見つけることができない。ところが『水左記』承暦元年(1077)12月23日条に「大和守重経」が見え、さらに『中右記』元永2年(1119)9月27日条に「経重、光行、行高懸一皷参入」とある。このことで、いちど脇に置いた『袋草子』『和歌色葉』の紀伊守藤原重経の妻/妹説も安易に捨てられなくなる。大和守平重経(経重)の妻/妹の誤りと分かるからである。『尊卑分脈』『作者部類』『袋草子』『和歌色葉』の各説が、実はつながっていることが見えてくる。
 これまで経方の叙爵後の経歴を、当時の記録からたどることが難しかった。しかし改名しているのであれば、叙爵後の経方を当時の記録で見つけられないのは当然である。紀伊の出自をめぐる混乱は単なる混乱ではなく、同一人物の実名の変遷を示していたのである。 

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